牛郎織女の物語は、民間では広く伝わっており、知らない者はないくらいで、七夕を話す時いちばん人々の口にのぼるのも、この伝説である。牛郎織女がかささぎの橋の上で會う物語を記載したいちばん古い本は、東漢の応劭が著わした『風俗通』である。「織女七夕に河を渡る時、かささぎを使って橋となす」。また、この物語を比較的くわしく記載してあるのは、明の馮応京の著『月令広義?七月令』の中の一節である。「天の河の東に織女有り、天帝の子なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その獨居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度會うことを許す」。このくだりは、封建時代の女性に対する差別観念をあらわしている。
近代に伝わっている牛郎織女の民間の物語は、內容もずっとゆたかで健康的である。その伝統によると、牛郎は誠実で正直な働き者の若者で、父母が死んでから兄夫婦に頼って暮らしていたが、兄嫁がよくない女で、たった一頭の老いた牛と、おんぼろの大八車、痩せた二ムー(一ムーは六?六七アール)の土地を分けてやって、分家させてしまった。牛郎は自活する羽目におちいり、老いた牛を身內のように大切にして、「牛の兄貴」と呼んでいた。牛は牛郎が一人ぽっちなのを見て、嫁を世話してやろうと思い、某月某日に七人の天女が下界に降りてきて遊び、天の河で入浴するから、もしそのうちの一人の天女の服を盜んだら、その天女が彼の妻になると教えてやった。牛郎はその言いつけ通り、ある月のおぼろな晩に、織女の服を盜み、それから二人は夫婦になり、夫婦仲もむつまじく、三年のちには男女二人の子寶までもうけ、仕合せな生活を送っていた。ところが、娘が下界で暮らしていることを知った天帝は、王母娘娘をつかわして織女を天に連れ戻し、その罪をただした。こうして仲の良い夫婦は殘酷にもあいだを裂かれてしまった。牛郎は天に登るすべもなく、死ぬほど悲嘆にくれていた。「牛の兄貴」はこの悲劇を見るに忍びず、自分の角を折って船にし、牛郎に二人の子供を連れてその船に乗り、雲をかきわけ霧を散らしてそのあとを追いかけさせた。ところが、もうひと息という時に、殘忍な王母娘娘は頭からカンザシを抜いて二人のあいだに線をひいた。空には同じに波の荒れ狂う天の河が橫わたり、牛郎と織女は互いに渡ることができず、河水をへだてて見つめあうばかりだった。二人のゆるぎない愛情に感動した心のやさしい鳳凰は、天下のかささぎを呼び集めて、波の高い天の河にかささぎの橋をかけ渡し、夫婦はついに七夕にめぐり會うことができた。伝説によると、この日になると空から數えきれないほどの鳥の羽根が舞い落ちてくるが、これは天下のかささぎがみな天の河に集まって橋を造り、牛郎と織女に渡らせるためだという。
地球から見ると、牽牛星と織女星はわずか「一河」の隔たりしかなく、二人が會うのはさし難しいとは思えないが、天文學的に見ると、この二人の星は一六光年の距離があり、一五〇萬億キロを隔てている。こんな遙かな旅程では、たとえ牛郎が光と同じ速度の宇宙船に乗ったとしても、十六年たたなければ織女に會えない。けれども、この人物化した神話の物語は、中國の封建社會の男女の婚姻が自由にならない殘酷な現実を反映しており、七夕のかささぎの橋での再會は、働く人々の善良な願いと仕合せな生活に対する憧憬を反映している。
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