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歌舞伎の中國公演に寄せる期待
発信時間: 2004-04-29 | チャイナネット

日本の歌舞伎が今年五月、二十五年ぶりに中國で上演される。北京で開催される第二回國際演劇祭に、近松座が參加することになったのだ。

日本の歌舞伎の中國公演は、新中國成立以來これまでに、一九五五年と七九年の二回、北京で行われ、そのたびに中國の人々の間で歌舞伎ブームを巻き起こった。

三回目の歌舞伎の公演を、特に楽しみにしている人がいる。梅葆玖さんである。彼は日本でも有名な京劇俳優(yōu)、梅蘭芳の九男で、梅派京劇の継承者として知られている。過去三回の中國で公演された歌舞伎をすべて見てきたうえ、日本の歌舞伎界とも交流を続けてきた。

本誌は、近松座の中國公演を前に、北京京劇院に梅葆玖を訪ね、京劇と歌舞伎の交流や今後の期待について話を聞いた。

――本誌が創(chuàng)刊されてから五十年以上経ちますが、創(chuàng)刊二年後の一九五五年、名優(yōu)、市川猿之助が率いる歌舞伎が北京に來て、『勧進(jìn)帳』『京鹿子娘二人道成寺』など三本を北京で上演しました。當(dāng)時の様子はどのようなものでしたか。

梅葆玖 私は、父の梅蘭芳といっしょに、全國政協(xié)禮堂で『勧進(jìn)帳』を見ました。北京の多くの文化人はみな、市川猿之助の深みのある素晴らしい舞臺を見たのです。猿之助は當(dāng)時、すでに非常に有名でした。日本では知らぬ人がいないほどの大御所で、尊敬されていました。中國の演劇評論家、歐陽予倩がその公演を絶賛した文章を今でも覚えています。

実は、本物の歌舞伎の公演を見たのは、これが初めてでした。しかし、それ以前に、父が歌舞伎のことを何度も語ってくれていたので、まったく分からなかったわけではありませんでした。

その翌年の一九五六年、私は父について訪日京劇代表団に加わり、日本に行き、公演しました。そして市川猿之助の家までお邪魔したのです。

――當(dāng)時は中國と日本の間にはまだ外交関係が樹立されていませんでしたが、交流の道はどのようにして拓かれたのでしょうか。

梅葆玖 民間交流の重要性を考えた周恩來総理が、自ら手配りしたのです。一九五六年の京劇の訪日公演もそうでした。周総理は、歌舞伎が日本から北京にやって來てくれたのだから、私たちも答禮訪問しなければならない、と言われました。

――お父さんの梅蘭芳は全部で何回、日本に行ったのでしょうか。

梅葆玖 父は一生で三回、日本に行きました。一九五六年の訪日が最後の訪問となりました。

最初は一九一九年、當(dāng)時、歌舞伎を常に支援していた日本の大財(cái)団の招きで日本に行きました。日本での公演は大好評で、日本の観衆(zhòng)はこのとき初めて梅派京劇の蕓術(shù)について知ったのです。父が演じた『御碑亭』は、中國の古代では、女性は地位が低く、男性の酷い誤解と蔑視を受けていたことを表現(xiàn)したものです。それが多くの日本女性の共感を呼び、観客席の多くの人が、ボロボロと涙を流していたそうです。

次は一九二四年です。関東大震災(zāi)が一九二三年に起こり、被災(zāi)した日本の人々を救援する募金活動のため、父は再び日本に行き、慈善公演をしたのです。

しかし、日本軍國主義者が中國を侵略した期間は、父は祖國が國難に直面したと感じ、ヒゲを蓄え、二度と舞臺に立とうとはしなかったのでした。

だから、一九五六年に、民間の文化交流の使節(jié)として再び日本を訪問するよう周総理に求められた時には、最初のうち父は、考えがはっきり定まりませんでした。もちろん最後には、周総理に説得されて日本に行きました。訪日公演は大成功を収めたのです。

――梅家は日本や歌舞伎と淺からぬ縁で結(jié)ばれているようですが、梅蘭芳の歌舞伎に対する見方はどのようなものでしたか。

梅葆玖 父は歌舞伎を日本最高の古典演劇蕓術(shù)だと見なしていました。歌舞伎に対して終始、興味を持ち、彼と同時代の歌舞伎の名優(yōu)たちとみな良き友人になりました。また、歌舞伎の各流派に対しても研究していました。

京劇は、「唱(歌)」「念(セリフ)」「做(所作)」「打(立ち回り)」を重んじるのですが、歌舞伎は京劇と違って「唱」はなく、セリフがあるだけです。またお囃子はみな和服を著て舞臺の上に座っています。これはおそらく、能楽の伝統(tǒng)と関係があるのだろうと思います。このように、蕓術(shù)の形式は異なるところがあるものの、アジアの舞臺演劇の魂は通じ合っているのです。

父は若いころから日本の歌舞伎劇団と深い友情を結(jié)んでいました。ご覧なさい。ここに一九二六年の公演のポスターがあります。その年、北京の劇場では、父が『白蛇伝』の一幕『金山寺』を大詰めで演じたのですが、その前の出し物は日本の歌舞伎の『一條大蔵{ものがたり}譚』(中國語の題は『大蔵清』)だったことが分かります。二十世紀(jì)の二〇年代に早くも、京劇と歌舞伎は同じ舞臺で演じられていたのですよ。

 ――これこそまさに「國劇」である京劇と、日本を代表する伝統(tǒng)演劇の歌舞伎とが共存した黃金時代だったと言えますね。さて、日本の歌舞伎は通し狂言をご覧になったことはありますか。

梅葆玖 改革?開放以後、私は何回も日本に行きました。そして日本で歌舞伎を観て、深い印象を受けました。日本では春と秋に、いつも歌舞伎の公演があります。宣伝は、公演のずっと前から始まるのです。この點(diǎn)は、私たちは學(xué)ばなければならないところです。

観客の多くは歳のいった人で、この辺は京劇の狀況と同じです。もちろん若い人もいますけれどね。

歌舞伎は、午前の部を観に行く時は、晝の休憩に晝食を食べ、午後また観ます。午後の部を観るときは、午後に芝居を観て、休憩し、夕食を食べ、また夜に続けて観ます。京劇の場合は一般に一回の公演が二時間で、時々ある通し狂言でもせいぜい四時間です。その間に食事は出ません。この點(diǎn)が歌舞伎と京劇の大きな違いでしょう。

一九八六年、私は日本の友人に招かれて、歌舞伎の通し狂言を観ました。観劇の途中に「弁當(dāng)」も食べました。

印象がもっとも深かったのは、中國の京劇は高度に様式化されてはいるものの、上演するときには一定の柔軟性があるのですが、これに対し歌舞伎は、様式化の程度がもっと高く、舞臺の上での足の運(yùn)びが正確でゆっくりしていて、所作の一つ一つがすべてきちんと決められていることです。

もう一つ、印象に殘ったのは、歌舞伎の有名な役者は非常に尊敬されていて、楽屋でも舞臺でも、その役者が現(xiàn)れると他の人たちはみな、かしこまることです。また、歌舞伎の流派の屋號は、それを継承するとき世襲制ではないことも、私に深い印象を殘しました。

――梅派京劇では、どのように継承されているのでしょう。

梅葆玖 もちろん京劇の流派の継承は、歌舞伎のように○○屋の何代目、何代目というように次の代に伝えられていくものではありません。しかし、血の繋がっていない弟子は歌舞伎と同じように採っています。

私はいま、いつも舞臺に立つということはありません。主に北京京劇院に屬する梅蘭芳京劇団を経営し、研究生たちを率いて梅派京劇を大いに発展させようと力を注いでいます。現(xiàn)在、私の元に、臺灣から來た弟子を含め十三人の研究生がいます。その中の一人の胡文閣は、目下、私について女形を?qū)Wんでいます。

――これまでに、日本の古典演劇界との交流や合同公演を考えたことはありますか。

梅葆玖 ありますとも。私たちはかつて、日本の能楽と合同で『楊貴妃』を演じたことがあります。歌舞伎にも『楊貴妃』があります。坂東玉三郎の演じる『楊貴妃』は。梅派京劇の表現(xiàn)方法を一部、參考にしています。玉三郎は北京に來て私に『楊貴妃』を教えてほしいと言いました。彼は大御所的な様子はまったくなく、非常に謙虛で、しかも學(xué)びながら獨(dú)自の工夫をしていたのが、大変印象に殘っています。

――今回の歌舞伎の中國公演では、近松座は二つの出し物を持ってきます。一つは『太刀盜人』、もう一つは『藤娘』です。近松門左衛(wèi)門は、日本ではシェークスピアに比肩される大劇作家と見られていますが、その名をとった近松座は、「人間國寶」の稱號を持つ歌舞伎役者、中村鴈治郎が一九八一年に旗揚(yáng)げした一座です。主に近松門左衛(wèi)門の作品を上演しています。今回上演される二つの出し物は、ご覧になったことはありますか。

梅葆玖 去年、東京の歌舞伎座で、『藤娘』を観ました。これは踴りの要素を主とする劇で、大変美しい。藤の精の姫が肩に藤の枝を擔(dān)いで、塗り笠を被った姿はとてもきれいです。踴りも女らしく、品があり、優(yōu)雅で、音楽も魅力的でした。

『太刀盜人』は殘念ながら観ていません。でも、コメディータッチの立ち回りの芝居だと聞いています。私はこういう芝居が大変好きなので、北京で観られるのを楽しみにしています。

――前の二回の歌舞伎訪中公演と今回の公演とは、違いがあると思いますか。

梅葆玖 これは興味深い問題です。今回も政府による文化交流のプロジェクトですが、一九五五年の第一回公演は、中日両國の関係がまだ正常化していない狀況の下で行われたので、政治的な意義がやや大きかったのです。

ちょっと秘密の話をしましょう。當(dāng)時、多くの観客は、動員されて観に來たのでした。途中で誰かが退場するのを防ぐため、公演が始まると劇場のドアはみんな鍵を掛けてしまったのです(笑い)。

一九七九年の二回目の公演は、『中日平和友好條約』締結(jié)の次の年で、両國は友好的な蜜月の雰囲気に浸っていました。しかもその年、両國は『中日文化交流協(xié)定』に調(diào)印したのでした。

しかし、この二回の公演とも、中國の計(jì)畫経済時代に行われました。今回は完全に、市場メカニズムの中で運(yùn)営されます。事情は當(dāng)然違ってきます。

――運(yùn)営の仕方は市場化の道に向かって進(jìn)んでいます。今回の公演は、文化部などの政府機(jī)関が主催してはいますが、実際の運(yùn)営は「歌華太陽」のような文化企畫會社が行います。ですから、以前のように、観客を動員して観に來させることはできなくなり、同時に必要な入場料収入を確保しなければなりません。こうした狀況の下で、どのようにすればより効果があがると思いますか。

梅葆玖 まず、事前の宣伝をしっかりすべきだと思います。きちんとしたセリフの訳本も必要です。さらに各種のメディアを通じてなるべくたくさん紹介する必要もあります。

ここに我々京劇団が日本公演をした時に、日本の企畫會社が製作した宣伝ポスターやビラ、パンフレットがあります。どれも非常に詳しく、しかも精緻にできています。この點(diǎn)は日本に見習(xí)わなければなりません。

歌舞伎の蕓術(shù)様式や出し物の內(nèi)容について的確な宣伝をする必要があります。うまく世論が盛り上がれば、自然に、質(zhì)の良い観客が観にやって來て、喝采してくれるでしょう。

また歌舞伎は、能楽のように宗教儀式のような感じやゆっくりしたテンポではなく、相対的に言えばかなり大衆(zhòng)化されたものです。今回、持ってくる二つの出し物は、セリフがあまり多くはなく、上演時間もだいたい一時間前後であることに、私も気付いていました。これなら途中で「弁當(dāng)」を食べる問題は起こらないでしょう(笑い)。日本側(cè)は、企畫段階でも、文化的背景の異なる観客がどの程度歌舞伎を受け入れることができるかを十分考えたようです。

もし、今回の公演が成功を収めれば、中日両國の國を代表する古典演劇が、市場経済の條件の下で交流するために、新たな道を探し當(dāng)てることになります。その意味で、今回の公演は大きな意義をもっていると言えましょう。

――梅蘭芳が三度日本を訪問し、今年、歌舞伎が三度目の訪中公演をする。このときに面白い話をうかがうことができたのは、時宜にかなったことです。梅家と歌舞伎の往來の歴史は、両國の古典演劇交流のシンボルとも言えるでしょう。

梅葆玖 実はもう一つ、時宜にかなっていることがあります。それは今年が、父の生誕百十周年に當(dāng)たることです。

――そうですか。もし梅蘭芳が、京劇と歌舞伎の交流が今日のように盛んになっているのをご覧になったら、きっと喜ばれるに違いありませんね。ありがとうございました。

『人民中國』より 2009年3月26日

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