寫真は中國四川省の女子バレーチームを指導する日本のニチボー貝塚の大松博文監督。
寫真は2004年5月13日、故人となったバレーボールの有名監督?大松博文氏の夫人、大松美智代さん(真中)は、60年代に大松監督の指導を受けたバレーボールの中國ナショナル?チームの元選手に伴われて北海公園を遊覧したところ。
1960年代、大松博文監督の「精神力バレー」は、國際バレーボール競技界において特異な存在であった。大松監督は、その「鬼」のようなトレーニングで、日本女子バレーチームに奇跡の175連勝を成し遂げさせ、日本女子バレーチームは「東洋の魔女」と恐れられた。
1964年11月、初めて中國を訪れた大松氏は、中國の周恩來総理に二度も會見されている。1965年4月21日、大松氏は周恩來総理の要請を受け、一カ月の間上海で中國女子バレーチームの指導に當たることになった。
大松監督のトレーニングは厳しくて過酷なことで知られ、「鬼の大松」と呼ばれていた。特に大松監督が編み出した回転レシーブの練習では、中國の女子選手は全身青アザだらけにされている。トレーニングの途中で、床に倒れこんだまま動けなくなってしまう選手もいたほどである。それでも、大松監督は大聲で怒鳴り、強烈なボールを叩きつけた。「練習をしているうちに、目まいがして、目がかすみ、體育館がぐるぐる回っているように見えました。なのに、無意識のうちに體が走り出し、大松監督が投げた球をレシーブしているのです」と、當時のメンバーがその過酷なトレーニングを語ってくれた。耐えられなくなったある選手は、目を見開いて監督に食って掛かった。「鬼の大松、あんたにかみついてやる!」。大松監督はその選手の言葉を通訳するように言ったが、通訳は機転を利かせ、「彼女は、『大松さん、もっとやりなさいよ。私はあんたなんか怖くない』と、言っています」と、伝えた。しかし、彼女の険しい目を見れば、大松監督にもその選手の真意は分かった。厳し過ぎるトレーニングに選手が反抗することなど、日本でも珍しくなかったからだ。
「ライオンはわが子を谷底に突き落とし、上がって來いと聲をかけると聞く。スズメは小スズメが成鳥に近づいてきたら、巣立ちさせるために何日も餌をやらないとも言う。私は選手たちをこのような親心で包んでいるのです」と、大松監督は語っている。
一カ月が過ぎ、帰國前夜になっても大松監督は通常通りにトレーニングを行った。送別會の席上で監督は、「中國には意志が強く、飲み込みの早い女子選手がこんなに大勢いて、良い観衆とバレーボールに関心を持ってくれる國の総理がいる。世界チャンピオンにならないほうがおかしい」と挨拶している。そして、別れる際に選手の一人一人にタオルを贈り、「君たちにタオルを贈る。今後は、今まで以上に汗をかくように」と、意味深長な言葉を殘した。
大松博文氏は1978年に亡くなったため、中國女子バレーボールチームのその後の「五連覇」の偉業を目にしていない。大松監督が中國の女子バレーボールチームを指導したのは一カ月という短い期間であったが、中國人は中國バレーのために自分のすべてを注いでくれた「鬼の大松」を忘れてはいない。
「チャイナネット」 2007年3月