それは、今から9年前、私は10歳、小學校5年生のことでした。私の一生を左右する重要な年となりました。
私は、父と一緒に、山口大學に留學している母に會いに行きました。中國を出るのは初めてですから、どきどきしていました。
青島から、「ユートピア」という船に乗って、30時間かかって、やっと下関に到著しました。入國の手続きを待っている間に、私たちを迎えにきてくれている母の姿が見えるかもしれないと思って、甲板に行きました。しかし、薄暗い曙のの中に見えたのは、小さな島々と、忙しそうに行き來している船ばかりでした。これが私が初めて見た日本の光景でした。
母と一緒に出迎えてくださったのは、母の下宿の大家さんでした。松永幸助さんという方で、幼い私から見ると、お爺さんでした。松永さんは、遠くから
「おはようございます。若子ちゃん、ようこそいらっしゃいました。」
と挨拶してくださいました。その溫かい出迎えの言葉を聞いて、私の心細さが消えていきました。松永さんは、私が日本で會った最初の日本人となりました。その親切で優しい物言いや態度は私に強い印象を與えました。
その時、松永さんはもう70歳を超えていましたが、山口市日中友好協會のメンバーとして活躍されていました。彼は若い時、中國東北の北票で生活したことがあって、當時の體験や中國のことが忘れられず、中國からの留學生のお世話をしてくださっていました。彼の中國語は流暢とは言えませんが、私と中國語で話すのが好きなようでした。時々、私を自宅に招いて、お婆ちゃんの手作りの料理を食べさせてくれました。お婆ちゃんも熱心な方で、私に日本の著物を著付け、記念寫真をたくさん撮ってくれました。お祭りにも連れてくださいました。綺麗な著物を著た私の姿を見ながら、お爺ちゃんは嬉しそうな顔をして
「若子ちゃん、大きくなっても、日本にいるお爺ちゃんとお婆ちゃんのことを忘れないでね」
と言いました。また、お孫ちゃん三人を呼んできて、私と同じ年の二人と手をつないで寫真を撮りました。子供同士の間では、言葉が通じなかったですが、しばらくして良い友達になりました。
日本にいる1カ月間、あちこちに旅行に行きました。萩市で、「明治維新胎動の地」を見學し、吉田松陰のことを知りました。広島では、「原爆ドーム」や「原爆記念館」を見學し、「戦爭に反対し、平和を祈禱する」人々の姿も見えました。私は、その時、無意識に「戦爭を退け、世界の人々が永遠に仲良くできますように」とメモノートに書きました。
下関では、海底トンネルを歩いて渡り、九州に入りました。別府の溫泉地巡り、涼しかった阿蘇高原、緑が鮮やかな草千里、雄大なカルデラなどを見物しました。硫黃特有の匂いがする卵湯に入ったのも忘れられません。帰國前に、長門高校に留學している中國の留學生にも會いに行きました。
あれから、あっという間に、10年が経ちますが、私は大學生になりました。幼年時代の日本での1カ月は短かったですが、いろいろなことを経験しました。その経験があったので、大學の専攻を決めるときに、迷わず日本語科を選びました。私は、日本語らしい自然な日本語を身に付けたいと、頑張って勉強しています。自分の目で耳で日本の社會や文化を見、聞き、正しく理解したいと思います。そして、日本企業の進んだ経営方法や高度な技術も學びたいです。さらに、微力ではありますが、中日両國の友好交流と両國の発展のために全力を盡くそうと心の中で決めています。
寫真:おばあさんが筆者に和服の著方を教えているところ
(筆者は山東大學威海分校翻訳學院の韓若氷さん)
「チャイナネット」