大學(xué)院に入ってから、私は日本文學(xué)を?qū)熼Tとして學(xué)んできた。日本文學(xué)の世界に接すれば接するほど、「『哀れ』を重んじる日本文學(xué)の世界」という考えは常に念頭から離れない。中國(guó)の文學(xué)世界とだいぶ異なっていると感じながら、強(qiáng)く心が惹かれた。
『源氏物語(yǔ)』は日本古典文學(xué)の最高傑作だと言われている。その全編に漂っている基調(diào)は「もののあはれ」である。また軍記物語(yǔ)の代表作の『平家物語(yǔ)』は平家一門が繁栄し、やがて西海に滅び去ってゆく過(guò)程を描き、それにまつわる女性たちの哀れな逸話などを添えて、「哀れ」な物語(yǔ)の世界を創(chuàng)り出した。詩(shī)歌においても同様である。古代から近世にわたって、「あはれ」とか、「さび」「わび」とかの理念は、詩(shī)歌世界を貫く日本獨(dú)特のものである。「山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば」などは、なんという凄まじい情緒だろう。そして隨筆として、鴨長(zhǎng)明の『方丈記』は天災(zāi)地変を書いて、人生の変転無(wú)常を嘆き、「哀れ」をつくづくと描いた。
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近代になっても、「哀れ」の調(diào)子は依然として日本文學(xué)の底に流れている。特に川端康成の文學(xué)はその極致に達(dá)していると言われる。例えば『古都』の中の、千重子の憂鬱と柔順。一本のリラの花でさえ彼女にあれこれと様々なことを思い浮かばせ、感傷的にさせた。また『千羽鶴』の寂しく美しい歪んだ倫理の世界、『伊豆の踴子』の抒情味ゆたかな青春の感傷、『雪國(guó)』の虛無(wú)の花と稱せられる抒情の哀しい美しさ……。ほかに、芥川竜之介の『羅生門』『蜜柑』、三島由紀(jì)夫の『仮面の告白』『潮騒』、森鴎外や徳富蘆花、もう少し後の村上春樹などの作品の系列にも「哀れ」の色彩が漂っていると思われる。このように、古代から近代に至る日本文學(xué)には、「哀れ」の基調(diào)がずっと潛んでいると言えるだろう。確かに、江戸時(shí)代の有名な學(xué)者の本居宣長(zhǎng)が主張したように、「もののあはれ」の文學(xué)評(píng)論を展開し、日本の文學(xué)作品には多かれ少なかれ「もののあはれ」の情緒が隠れていることが日本文學(xué)の大きな特徴だろう。
現(xiàn)代日本文學(xué)においても、同じことが言えると思う。現(xiàn)代の日本文學(xué)作品はあまり読んでいないが、大衆(zhòng)文學(xué)の反映としてのテレビドラマや映畫はよく見ている。日本のドラマや映畫は悲劇が多いとよく言われている。日本のドラマや映畫を何部も見た後、私も同じことを感じた。『白い巨塔』、『氷點(diǎn)』、『失楽園』、『世界の中心で愛を呼ぶ』、『魔女の條件』、『東京ラブストーリー』、『一リットルの涙』、『神様、もう少しだけ』……一つ一つの悲劇が強(qiáng)く人々の心を打っている。悲劇も「哀れ」の一種だろう。また、映畫やドラマは文學(xué)様式の一種として、文學(xué)の実像を反映していると言えるだろう。上記の事実から、現(xiàn)代日本文學(xué)においても「哀れ」の色彩が感じ取れる。
このように、はかなさ、寂しさ、むなしさ、哀愁や悲劇を好む「哀れ」な日本文學(xué)の世界は獨(dú)特で、魅力に満ちている。実は、「哀れ」は文學(xué)世界の美意識(shí)だけでなく、現(xiàn)実世界の日本の人々の美意識(shí)でもある。多くの日本人は悲哀や滅びの中に美を求めている。桜が散るのも、滅びながらも美しい。平凡で円満な生命よりも、短くて悲壯な滅びが美しい、というのが日本的な考え方だろう。そういう美意識(shí)があるからこそ、「哀れ」の日本文學(xué)の世界はいつの時(shí)代でも殘るのだろう。時(shí)代がどう変わるにしても、哀愁や感傷、機(jī)知に満ちていて繊細(xì)で獨(dú)特な美しい日本の「哀れ」な文學(xué)世界は変わらずその光を放つだろう。
(筆者は山東大學(xué)の彭旭さん)
「チャイナネット」2007年9月28日