「胡同」は北京特有の歴史ある路地、橫丁のこと。北京には數(shù)千本と、おびただしい數(shù)の胡同が故宮の周?chē)欷藦垽暄菠椁丹欷皮い蓼埂4蟀毪显让鳌⑶濉ⅳ长稳膜螘r(shí)代につくられたものです。
北京では故宮を中心に、通りが縦橫に、まるで碁盤(pán)の目のように配置されました。正規(guī)の胡同は故宮の東側(cè)と西側(cè)に集中し、南北に整然と並び、多くの貴族が住んでいました。ごく普通の胡同は、多くが故宮からやや離れた南側(cè)と、北側(cè)につくられ、商人や庶民が大勢(shì)暮らしていました。
胡同にある主要な建物はほとんどが「四合院」。庭を囲むようにして東西南北の四面に部屋が対稱(chēng)的に並び、一カ所しかない門(mén)を閉じれば隔離される構(gòu)造の建物、これが四合院です。社會(huì)的な地位によって部屋數(shù)や大きさは異なっていました。高官や豪商の四合院は規(guī)模が大きく、回廊があったり、梁や棟に彫刻や文様が施されたり、前庭と後ろ庭を備えているなど、建築様式は非常に凝っています。一般庶民の四合院は、規(guī)模は小さく、つくりは簡(jiǎn)単で、入口の門(mén)は狹く、建物を取り囲む壁も低くなっています。光を採(cǎi)り入れやすくするのに配慮して、四合院はいずれも南向き。そうした配置のせいで、胡同の多くは東西の方向に伸びる形でつくられたのです。そして行き來(lái)をしやすくするために、やや大きな東西の胡同の間に南北に伸びる小さな胡同がつくられました。
民國(guó)時(shí)代、社會(huì)はきわめて不穏な狀態(tài)にありました。內(nèi)戦が頻発し、外國(guó)の侵略が続いたことから、北京の環(huán)境は整備されないまま、胡同も損傷がひどくなり、もともと一つの家族が住んでいた四合院の多くもまた、多數(shù)の世帯が雑居する「大雑院」と化してしまいました。1949年の中華人民共和國(guó)建國(guó)後、胡同は従來(lái)の姿をもとに、ある程度修復(fù)されました。けれども、十年にわたる「文化大革命」で、胡同に殘されていた貴重な數(shù)多くの歴史、文化遺跡は破壊の運(yùn)命に。そして1978年に始まった改革開(kāi)放。多くの胡同はブルドーザーで跡形もなく壊されてしまい、跡地にモダンな高層ビルが屹立するなど、北京は大きく変貌しました。
とはいえ、北京の市街地では、胡同はなおその面積の三分の一を占めていて、人口の約半數(shù)を占める人々がそこで暮らしています。胡同では昔と変わることなく今でも、庶民の生活が営まれているのです。胡同は北京という都市の“血脈”とも言えるでしょうし、これからもずっと北京の歴史、庶民の生活の改善ぶりを記録しつづけていくことでしょう。
「チャイナネット」2004年4月15日