遵義海龍屯
貴州には土司文化遺跡が數多くあり、その中でも遵義海龍屯の土司城遺跡は最も有名で、「絶壁の上の土司宮殿」と呼ばれている。2015年7月、ドイツのボンで開催された第39回世界遺産大會で世界遺産リストに登録され、遺跡の面積は遺産區と緩衝區を含む12.9平方キロメートルである。
海龍屯は遵義市(舊稱播州)高坪鎮海龍屯村の龍巖峠に位置し、南宋寶祐5年(1257年)に建てられ、九つの関所が建てられ、明萬暦28年(1600年)の「平播(播州の亂を平定する)の役」の際に破壊された。海龍屯は険しい地勢で、海抜は最高1354メートル、最低974メートルで、400メートル近くの高低差があった。中でも最も険しいのは「空の階段」であり、かつて「三十六歩」と呼ばれ、長さは55メートル、傾斜角度は45度、階段幅は2.7メートルであった。
1257年、モンゴル軍の南下を阻止するため、當時の播州官がこの軍事城を建設しようとした。2年後の1259年、モンケ?ハンは重慶合川釣魚城で戦死した。海龍屯と釣魚城が同時期に軍事的要塞を作ったのは偶然ではなく、播州人が築城に長けていることと密接な関係がある。釣魚城の造営者は播州人の冉琎、冉璞兄弟であった。元朝の大軍は阻まれ、雲南省を遠回りして中原王朝に攻め入るしかなかった。明萬暦27年(1599年)、播州宣慰使であった楊応龍は明に背いて挙兵した。朝廷は24萬の大軍を送り海龍屯を破った。この出來事は歴史では「平播の役」と呼び、萬暦三大戦の一つでもあった。
海龍屯は中國の唐?宋時代の羈燦政策と元?明時代の土司制度による産物であり、中國の少數民族政策が羈燦政策から土司制度へ、さらに「改土帰流」へと移り変わった歴史を示している。ここも有名な「平播の役」の主戦場であり、播州の土司を世襲した楊氏一族による725年間におよぶ栄華と沒落を示している。
海龍屯遺跡は2013年に「全國十大考古學的新発見」に登録され、2015年に「世界十大重要考古學的発見」に登録された。
遵義海龍屯
貴州有豐富的土司文化遺跡,其中以遵義海龍屯土司城堡遺址最為著名,被譽為“絕壁上的土司宮殿”。2015年7月,在德國波恩召開的第39屆世界遺產大會上將其列入世界遺產名錄,遺址區面積含遺產區和緩沖區共12.9平方千米。
海龍屯位于遵義市(舊稱播州)高坪鎮海龍屯村龍巖山巔,始建于南宋寶祐五年(1257),屯上建有九個關口,毀于明萬歷二十八年(1600)的平播之役。海龍屯地勢險要,屯上最高海拔1354米,屯下海拔974米,相對高差近400米。其中最險要的當數“天梯”,古稱“三十六步”,長55米,坡度45度,中間踏步寬2.7米。
1257年,為了阻止蒙古軍隊南下,當時的播州官員謀劃構筑這一軍事城堡。兩年后,蒙哥汗戰死重慶合川釣魚城。海龍屯和釣魚城之間在同一時期構造軍事堡壘不是巧合,而是和播州人擅長筑城有密切關系。釣魚城的營造者正是播州人冉琎、冉璞兄弟倆。元朝大軍鐵蹄受阻,只好繞道云南進攻中原王朝。明朝萬歷二十七年(1599),播州宣慰使楊應龍舉兵反明。朝廷調24萬大軍攻破海龍屯,史稱“平播之役”,也是萬歷三大征之一。
海龍屯是中國唐宋羈縻之制和元明土司制度的產物,見證了中國少數民族政策由羈縻之制到土司制度再到“改土歸流”的演變。它也是著名的“平播之役”的主戰場,見證了播州楊氏土司家族長達725年的興衰。
2013年,海龍屯遺址考古被列為全國十大考古新發現之一;2015年,海龍屯考古被列為世界十大重大田野考古發現之一。