北伐戦爭
中國共産黨中央は第1次國共合作成立後の1926年2月、黨の目下の主要任務は広東省の革命勢力を北へ進めることだとはっきり指摘した。1926年夏、國共両黨は北伐戦爭の実行を決定した。その直接的な攻撃目標は帝國主義の支援を受ける北洋軍閥の呉佩孚、孫伝芳、張作霖3派の勢力だった。7月9日、広東國民政府の指導する國民革命軍10萬人が正式に北伐に出発した。各界民衆の支持の下、北伐軍は意気高く前進し、10月10日に湖北省武昌を攻め落として占領し、軍閥?呉佩孚の部隊の主力を全滅させた。11月には江西省九江、南昌を占領し、軍閥?孫伝芳の部隊の主力を一挙にせん滅した。福建省、浙江省などの軍閥も次々と北伐軍の側に付いた。
北伐戦爭は中國共産黨が打ち出した反帝國主義、反封建軍閥のスローガンの下で進められた。北伐の過程で中國共産黨員は軍隊、政治工作、労農大衆動員の分野で非常に大きな貢獻を果たした。共産黨員の葉挺が指導し、共産黨員を中核として組織された第四軍獨立団(連隊)は、「鉄軍」の稱號を勝ち取った第四軍の中で、勇ましくよく戦う先鋒部隊になった。葉挺も北伐の名將とたたえられた。しかし、北伐軍が発展を遂げる重大な時期に、蔣介石や汪精衛ら國民黨右派勢力は上海と武漢で相次いで反革命クーデターを起こした。その時、中國共産黨は陳獨秀の右翼日和見主義の誤った影響を受けていたため、突発事件に対応する正しい措置を直ちに取ることができなかった。その結果、蔣介石反動集団は革命の成果を盜み取り、新しい軍閥支配を確立し、すさまじい勢いで進められた北伐戦爭は失敗に終わった。
北伐戰爭
第一次國共合作建立后,1926年2月,中共中央明確指出黨在目前的主要任務是推動廣東革命勢力向北發展。1926年夏,國共兩黨決定進行北伐戰爭,其直接打擊目標是受帝國主義支持的北洋軍閥吳佩孚、孫傳芳、張作霖三派勢力。7月9日,廣東國民政府領導的國民革命軍10萬人正式出師北伐。在各界民眾的支持下,北伐軍高歌猛進,于10月10日攻占湖北武昌,全殲軍閥吳佩孚部主力;11月占領江西九江、南昌,并一舉殲滅軍閥孫傳芳部主力。福建、浙江等省的軍閥也紛紛倒向北伐軍。
北伐戰爭是在中國共產黨提出的反對帝國主義、反對封建軍閥的口號下進行的。在北伐過程中,中國共產黨人在軍隊、政治工作以及發動工農群眾方面作出了巨大貢獻。共產黨員葉挺領導的、以共產黨員為骨干組成的第四軍獨立團,成為贏得“鐵軍”稱號的第四軍中的一支英勇善戰的先鋒部隊,葉挺也被譽為北伐名將。但是,正當北伐軍向前發展的緊要關頭,蔣介石、汪精衛等國民黨右派勢力先后在上海和武漢發動反革命政變。同時,因受陳獨秀右傾機會主義錯誤的影響,中國共產黨未能及時采取應付突發事變的正確措施。結果,蔣介石反動集團竊取了革命果實,建立了新的軍閥統治,轟轟烈烈的北伐戰爭以失敗告終。