百団大戦
1940年夏、日本の侵略者の「囚籠政策(抗日根拠地のつながりを斷って「掃討」を行う政策)」を粉砕し、華北の戦局をより有利に進め、かつ全國の抗戦情勢に影響を與え、國民黨が日本に妥協し投降する危険を克服するため、八路軍本部は華北で日本軍が占領した輸送線と拠點に大規模な戦役を起こすことを決定した。戦役の展開に伴い、參戦した八路軍の部隊が105連隊(中國では「団」と呼稱)約20萬人に達したため、「百団大戦」と呼ばれる。1940年8月8日、八路軍本部は「戦役行動命令」を下し、作戦を行う兵力に具體的な手配をすると同時に、8月20日を戦役開始の日と決めた。
百団大戦は二つの能動的な攻撃段階と一つの反「掃討」段階を経た。戦役の第1段階は交通の全面的な破壊戦で、重點は正太鉄道の破壊だった。第2段階では、輸送線の両側の襲撃と根拠地內に深く入り込んだ敵拠點の粉砕を継続し、淶霊(河北省淶源、山西省霊丘)戦役などを始めた。第3段階は反「掃討」作戦だ。百団大戦では4カ月余りにわたって計1824回の戦闘を行い、日本軍2萬人余り、かいらい軍5000人余りを死傷させ、各種大砲50門余り、各種銃器5900丁余り、大量の軍用物資を鹵獲した。八路軍も死傷者1萬7000人余りの代価を払った。
百団大戦は全面的な抗日戦爭以來、八路軍が華北地區で起こした最も規模が大きく、最も持続期間が長い戦略的進攻を含む戦役だ。中國共産黨の指導する敵後方の抗日軍民の気勢を示し、日本軍の兵力をけん制し、日本軍の「南進」の時間を遅らせ、正面戦場の戦いの支援や時局の好転の獲得に積極的な役割を果たした。中國共産黨とその指導する軍隊は日本の侵略に抵抗する大黒柱であり、抗日戦爭の勝利を勝ち取る希望の在りかだということをこの戦役は全世界に向けて示した。
百團大戰
1940年夏,為粉碎日本侵略者的“囚籠政策”,爭取華北戰局更有利的發展,并影響全國的抗戰局勢,克服國民黨對日妥協投降的危險,八路軍總部決定向華北日軍占領的交通線和據點發動大規模進攻戰役。隨著戰役的展開,八路軍參戰部隊達到105個團約20萬人,故稱“百團大戰”。1940年8月8日,八路軍總部下達《戰役行動命令》,對作戰兵力作了具體部署,同時確定8月20日為戰役發動時間。
百團大戰經歷了兩個主動進攻階段和一個反“掃蕩”階段。戰役第一階段是交通總破襲戰,重點是破壞正太鐵路。第二階段,繼續襲擊交通線兩側和摧毀深入根據地內的敵據點,并發動淶(源)靈(丘)等戰役。第三階段是反“掃蕩”作戰。百團大戰歷時4個多月,共作戰1824次,斃傷日軍2萬余人、偽軍5000余人,繳獲各種炮50余門、各種槍5900余支和一批軍用物資。八路軍也付出了傷亡1.7萬余人的代價。
百團大戰,是全面抗戰以來八路軍在華北地區發動的規模最大、持續時間最長的一次帶戰略性進攻的戰役,打出了中國共產黨領導的敵后抗日軍民的聲威,牽制了日軍的兵力,推遲了日軍“南進”的時間,并對支持正面戰場作戰,爭取時局好轉,起了積極作用。這次戰役向全世界表明了中國共產黨及其領導的軍隊,是抵抗日本侵略的中流砥柱,是爭取抗戰勝利的希望所在。