松下 「重病にある間、ブラウン管工場が落成して満足しています」
胡錦濤 「松下先生は中國の近代化に重要な貢獻をなされました」
寫真:1989年11月24日、北京松下カラーブラウン管有限公司が操業を開始した。現場でブラウン管を組み立てる労働者。
松下電器産業は北京にカラーブラウン管工場を設立する準備を始めた。
當時、日本は米國など西側諸國が設置した「対共産圏輸出統制委員會」(ココム)に加盟していた。同委員會は社會主義國への戦略物資や新技術の輸出を規制していたため、工場設立の手続きは極めて困難を極めた。
松下中國公司に長年勤めるある人物によると、そのころ、松下幸之助の決意は非常に固く、當時松下商社の社長だった山下俊彥にこの件を処理するよう何度も言い聞かせたという。
その後の數年、山下俊彥は日本政府や中國政府などの間を奔走した。
1987年、松下電器産業と北京市における中國電子部など関係機関の企業4社が北京松下カラーブラウン管有限公司を合弁で設立した。
その後、松下電器産業は前後して北京をはじめ広東、浙江、江蘇、上海、山東などに投資し、工場や合弁企業を設立した。
松下電器産業関係者によると、當時、重病にあった松下幸之助はずっとブラウン管工場の建設狀況に関心を寄せ、同社の幹部が工場竣工の寫真を見せると、満面満足の笑みを浮かべたという。
北京松下カラーブラウン管有限公司は二つの記録を殘した。第一は、雙方の投資額が日本円にして248億円と、當時規模最大の中日合弁企業であったことである。第二は、操業を開始した年に利益を計上し、日本の業界を驚嘆させたことである。ほかの日本企業は次々と同公司に視察に訪れ、松下電器産業に追隨して中國に進出するようになった。
90-96年、北京松下の製品売上高は6億5000萬元から29億4000萬元まで増加。同時に、改革開放が進むに伴って松下電器産業は一時、中國人に最も知られ好まれる「外國ブランド」となった。
08年5月、胡錦濤主席は日本の松下電器産業本社を訪れた際にこう語っている。「今年は中國の改革開放30周年であり、鄧小平が貴社を訪問してから30周年にあたります。まさにこの訪問で、中國と貴社との協力が促され、貴社は中國の近代化建設に最も早く參與した日本企業となりました。貴社の創業者である松下幸之助は中國の近代化建設を支援するために重要な貢獻をなされました」
(文中敬稱略)
「チャイナネット」2008年11月6日