かつて中國は貧しいという理由から、日本人は中國人を差別した。それは、貧しい人が軽蔑されるのは當(dāng)然だという商品社會の考え方によるものだ。でも今は中國も裕福になり、日本に旅行に行き、昔の大だんなのように一匹9萬元もする伊勢えびを二匹注文し、全く気にもかけない。88萬円もするルイヴィトンのかばんを安いと、すべて買ってしまう。中國は強(qiáng)大になり、中國人も裕福になった。それでも日本人はさげすむのか。
これは中國のお金持ちである「おじさんおばさん」が日本旅行での消費(fèi)者の心理だ。ニュースでも聞いたことあるし、実際こういう人を見かけたこともある。海外に行って莫大なお金を惜しみなく使う「お金持ち」に、これだけはわかってほしい。お金があるのと尊厳とは違うということを。
90年代初め日本に來る前、私は上海浦東にある外資系ホテルで仕事をしていた。その時(shí)浦東は開発の一番めまぐるしい時(shí)期で、高騰した土地や様々な優(yōu)遇政策により、多くの現(xiàn)地の人は潤い、ある種の「成金」と言われる郷鎮(zhèn)企業(yè)家が生まれた。こういう人たちはお金もちで、ホテルを我が家の食卓であるかのように毎日食べに來ては、フカひれを注文していた。これはまだましなほうで、忘れられないのが、12人の団體客が來て、一人一つずつ「攜帯電話(大哥大)」(今では誰もが攜帯を持っているが、當(dāng)時(shí)は「手機(jī)」ではなく、「大哥大」と言って、ある種のステータスや富の象徴であった)をもっていて、大型円卓に置き、ウエイトレスを呼ぶ。
「洋酒が飲みたいんだが、何かおいしいお酒は。」
この勢いを感じ取って、レストランの擔(dān)當(dāng)者がかけよってきて注文をとる。
「レミーマルタンXOはいかがですか。」
「一本いくら。」
「888元です。」
「ではそれを、12本、一人一本ずつ。」
當(dāng)時(shí)ホテルの管理をまかされ數(shù)年働いていて、世間を少なからず知ってはいたものの、一人一本レミーマルタンを飲みほすのを目の當(dāng)たりにし、初めて目にしたのだが、本當(dāng)に目が覚めた。いくら大金をはたいても、人間の尊敬は感じられなかった。というのは、この事は今でも成金をあざ笑うの笑い種となっているからである。
最近中國の富裕層が海外で高価なものを買いあさっている。これは今言ったレミーマルタンをビールのようにがぶ飲みする「お金持ちのおじさんおばさん」と大方同じだ。太っ腹で大金を落としてくれ、店側(cè)は心の中では喜んでいるが、「えよう食い」「買いあさり」は、茶飲み話の笑いの種になっているのであろう。
お金があるのと尊厳とは違う。お金持ちには「品」が必要で、この「品」は品格の品であり、「徳」とは違う。「徳」はなかなか身につかず、心のありようが問われる。しかし、少なくとも「品」は不可欠だ。では「品」とは何か。これは一人の人間のふるまいや人がら、そして、知識や教養(yǎng)が自然とかもし出され、人が感じ入るものだ。お金だけあっても、知識や教養(yǎng)がなければ、品がないと人から指をさされる。中國國內(nèi)ではお金がある、或いは権勢があるという理由で周囲からはもてはやされ、尊敬されるかもしれないが、海外ではそれでは通用しない。(『日本新華社報(bào)』)
「中國網(wǎng)日本語版(チャイナネット)」 2010年5月11日