「次の日の朝、分隊長が新兵に「止めの一撃」を命じた。死體をチェックし、生きていれば刺し殺す。私も柔らかい死體の上を踏み歩きながら生きている者を探し、見つけると「ここにいる」と知らせ、他の兵士が殺しに來るのを待った。銃剣は鋭く喉を突き刺し、血が噴水のように噴き出し、刺された者の顔は一瞬にして真っ白になった。」
松岡氏の指摘によれば、徳田一太郎氏の証言は、日本軍第16師団長中島今朝吾氏の日記內容と一致しており、第6中隊は1300人中數百人の死體を処理したことになるという。
太平門大虐殺 未だ見つからない生存者
松岡氏の調査には一つの原則がある。それは細かな事実を大切にし、全ての虐殺地點において、できるだけ加害者と被害者自身の両方から証言を得ることを通して実証することである。
そして今、南京大虐殺において松岡氏が唯一生存者を発見できていない場所がこの太平門一帯なのである。記者は南京大虐殺記念館(以下「記念館」)で、目下300名あまりの生存者の中に、太平門集団虐殺の生存者は一人もいないことを知った。記念館では、中國侵略日本軍が南京太平門で行った集団虐殺について、日本兵士の証言や寫真は収集できているが、生存者の証言が唯一欠けている。當時、太平門一帯は、日本軍が虐殺を行った重要な地區の一つである。記念館等に所蔵されている資料だけでなく、松岡氏の日本での調査によって當時南京大虐殺に參加した十數名の日本兵も、太平門で虐殺が行われた事実を実証している。しかし、南京では當時太平門虐殺に何らかの形で関わりを持った生存者が、これまでずっと見つかっていない。松岡氏にとって、これは長年の心殘りとなっている。
「中國網日本語版(チャイナネット)」 2011年3月9日