日本人戦犯?橫山光彥の1954年7月の供述書(shū)によると、橫山は1901年に日本の東京都で生まれ、1938年4月に中國(guó)東北部に赴いて中國(guó)戦略戦爭(zhēng)に參加し偽満洲國(guó)奉天高等法院審判官に任じられた。1940年7月以降は、斉斉哈爾(チチハル)?錦州?哈爾濱(ハルビン)高等法院次長(zhǎng)兼特別治安庭庭長(zhǎng)などの職を務(wù)めた。1946年3月に捕虜となった。
橫山が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。
1938年の夏から秋にかけて抗日救國(guó)者や平和住民約150人を逮捕し、そのうち「十二、三名死刑」の判決を下した。
1942年12月には、「審判長(zhǎng)」の身分で、共産黨北満組織の「責(zé)任者王燿均、組織者史履隆、組長(zhǎng)周善恩三名死刑」の判決を下した。
1940年7月から1943年5月までは、「自ラ審判長(zhǎng)トシテ処理シマシタ思想事件ハ、合計(jì)約八十九件、三百三十一名、其ノ內(nèi)ニハ死刑十八名、無(wú)期徒刑十名モアリマス」
1945年6月から7月までは、「審判長(zhǎng)」として、捕虜となった東北抗日聯(lián)軍第「三路軍責(zé)任者革命志士于天放及其部下タル幹部革命志士孫國(guó)棟、同劉祥、同杜希剛、救國(guó)會(huì)責(zé)任者愛(ài)國(guó)人民張祿、同會(huì)員タル愛(ài)國(guó)人民六十余名」の審判を行い、「革命志士孫國(guó)棟、劉祥、杜希剛、張祿等約十名死刑」の判決をくだした。(編集MA)
「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2014年7月28日