日本人が被害者なら中國人はさらに被害者
第二次大戦末期、米軍の空爆で數(shù)十萬の日本の庶民が殺された。「戦爭は多くの人の命を奪った。生き殘った私たちは、何か為になることをしなければならない」。小川さんはここ30年、地域の障害者を支援するボランティアを続けてきた。體の不自由な障害者の外出を助け、気晴らしの散歩に連れて行くといった活動だ。
小川さんは、歴史についての本を読み、日本への空爆が、中國侵略と太平洋戦爭の発動によって起こったことを知り、中國人の為に何かしたいという考えを持つようになっていた。
大東住職に會った後、日本軍による南京大虐殺の狀況をさらに知ることとなり、見たこともないこの町との縁を結(jié)ぶこととなった。10年前、南京大虐殺の犠牲者の追悼活動に參加した住職に、小川さんは手作りの巾著袋20個を託した。舊日本軍の暴行を受けたこの町に、自分の思いを伝えるためだった。大東住職はその後、南京に行く度、小川さんの巾著袋を攜えるようになった。住職は毎月9日、読経のために小川家を訪れる。毎年11月、小川さんは手作りの巾著袋を用意して住職を待つようになった。
小川さんはこう思う。南京大虐殺では多くの中國人が犠牲となった。數(shù)十萬の家庭が壊れた。犠牲者の家族の生き殘りは、親しい者を失った痛みに今も耐え続けている、と。
侵略を起こした國の庶民が被害者と言えるならば、侵略を受けた國の被害者は戦爭中の最大の被害者である。中國侵略日本軍南京大虐殺犠牲同胞紀念館の朱成山館長によると、日本軍の南京大虐殺での犠牲者は30萬人を下らず、そのうちほとんどは一般の庶民だった。今年12月13日は、最初の「南京大虐殺犠牲者國家公祭日」となるが、國家追悼の対象の中心となるのは一般庶民だ。
「南京大虐殺犠牲者國家公祭日は、南京大虐殺で犠牲となった同胞を追悼するものだが、公の追悼の対象には、日本帝國主義の中國侵略で日本侵略軍によって殺されたすべての犠牲者が含まれる」。1874年の臺灣侵略から甲午戦爭(日清戦爭)、中國東北部が戦場となった日露戦爭、さらに抗日戦爭まで、日本帝國主義の中國侵略で犠牲となった中國の民衆(zhòng)の數(shù)は數(shù)知れない。
歴史を鑑とし、右翼の言論と戦う