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360v360.cn |14. 09. 2024 |
青年時代を変えた「事件」
日中友好協(xié)會専務(wù)理事 西堀正司(談)
1972年の日中國交正常化から今年で52年、その中で一つの節(jié)目をつくったのが84年の「日本青年3000人訪中」だというのは、紛れもない事実だ。日本の47都道府県から青年団體の全てが結(jié)集したケースは他にないからだ。
82年の國交正常化10周年のとき、私は日中友好協(xié)會訪中団の一員として北京を訪問し、鄧小平先生とお會いした。その際、鄧小平先生は中日友好を子々孫々と発展させなければならないと述べ、「高校生、中學(xué)生だけでも問題は解決しない。まだ生まれていない人をも含める」とおっしゃった。その後、鄧小平先生の指導(dǎo)と改革開放路線の下で3000人交流が行われたと私は理解している。
84年當時、私は日中友好協(xié)會の事務(wù)局長を務(wù)めていた。3000人訪中の準備段階で大変だったのはまずは時間との闘いだ。話が來てから実行するまでの時間が1年もなかった。事務(wù)局としては、お土産の手配をしたり大學(xué)生交流の歌を作ったりと、やることは山ほどある。余興用に花笠音頭などの集団でできるものを練習(xí)したり、中國語で歌を歌ったりなどの練習(xí)は、各団體でやってもらった。
また、各機関と綿密な打ち合わせをして、どのように組織するかを決めることも大変だった。問題點はホテルが少ないこと、日中間の定期便が多くないことだった。日本外務(wù)省、中國外交部、日本青年団協(xié)議會、中華全國青年連合會、中日友好協(xié)會などと総力を挙げて対応した。
ようやく9月になり、私は北京から入り、西安から上海に行って帰國するスケジュールだった。北京では、新中國成立35周年のパレードを3000人が天安門脇の見物席で見物した。特に印象深かったのは夜に花火大會が行われ、3000人が天安門広場の見事な花火の夜空の下で、中國青年と時間を忘れてダンスパーティーをしたことだ。
西安では兵馬俑、大雁塔、華清池など名所舊跡を訪問し、興慶宮公園で西安各界青年交歓會に參加した。聯(lián)歓會では、兵馬俑の俑が向こうから歩いてきた。それは中國の青年がマスクをかぶり俑に変裝したものだった。みなで驚いていたら、その俑の大將が日本語で「西堀さん」といきなり聲を掛けてきて、さらに驚いた。國會議員で日中農(nóng)業(yè)農(nóng)民交流協(xié)會の會長をしていた八百板正さんが、80年の初めに日本で初めて中國の青年に技術(shù)を教えるために研修生として迎え入れたのだが、2年目に私がその役を擔った。俑の大將はそのときの一人だった。
また上海では、中國の青年と卓球で交流した。私の相手は世界チャンピオンになった女性で、わざと負けてくれた。ラケットにサインしてもらい、世界一の彼女が、「西堀さんは私より強い人」と言ってくれた。
振り返って見ると、3000人交流は、參加者の青年時代を瞬間的に変えた「事件」だったと思う。日々の生活から突然非日常的な體験の場へと行き、そこで目で見て耳で聞いて、さらに體験し、食べ、踴ったことが血となり肉となり、體の一部になった。以降、日中交流は高揚期を迎えることになり、日中関係も非常に良い時期に入った。それをきっかけに、友好関係を締結(jié)する自治體が急増し、現(xiàn)在は250以上になっている。これも大きな成果の一つと言えるだろう。
40年前の3000人交流に攜わった人の多くは、お年寄りになっている。日中友好を真剣に考えようと心から思える若者をどれだけつくれるかが、われわれにとって早急に解決しなければならない問題だろう。 (李一凡=聞き手?構(gòu)成)
「人民中國」 2024年9月14日