米オリンピック委員會のピーター?ユベロス會長にとって、1984年5月12日の夜にかかってきた1本の電話は、生涯忘れられないものだ。はるばる北京からかかってきたこの長距離電話は、ユベロス會長をとてつもなく興奮させる知らせを告げた。中國が84年ロサンゼルス五輪に參加するというのだ。米紙「ニューヨーク?タイムズ」(14日付)によると、當時米國は、ソ連のロス五輪ボイコットを阻止する方法を模索している最中だった。ユベロス會長の言葉を借りると、中國のこの行動はロス五輪だけでなく、その後のオリンピックの運命をも決定したのだ。「環球時報」が伝えた。
▽ソ連などの國々がロス五輪をボイコット
ロス五輪を2カ月後に控えた1984年5月8日、ソ連は安全上の理由から選手団の派遣をとり止めると発表した。1980年のモスクワ五輪では、米國が數十カ國を集めてボイコットしたという経緯がある。米國に報復するため、ソ連もロス五輪のボイコットで他の國々との同盟に動き始めたのだ。ソ連は、すでに100カ國が選手団の派遣とり止めで合意したと発表した。當初このリストには中國も入っていた。
國際オリンピック委員會(IOC)のサマランチ會長(當時)はいろいろと説得に回ったが、こうした國々の決定を覆すことはできなかった。ユベロス會長はロス五輪への參加を促すため、決定を留保している國々にただちに特使団を派遣した。中國に派遣されたのはロサンゼルス郡検事局の検察官、チャールズ?リー氏だ。リー氏は中國人ではないが、流暢な中國語を話す。ユベロス會長自身はキューバーへ飛んだ。
▽中國語に精通した特使を派遣
現在62歳のリー氏は、ロサンゼルス高裁の判事職をすでに定年退職している。リー氏が中國語を學び始めたのは、海軍に所屬していた1960年代末のことだ。その後、臺灣で2年間の研修も積んだ。夫人も香港出身の中國人だ。ロス五輪の準備段階で、五輪組織委員會規則の起草にはリー氏の働く法律事務所も加わった。中國語に精通した特使が必要になった時、ユベロス會長がリー氏を思い浮かべたのは、このためだ。
リー氏は70年代と80年代に何度か中國を訪問し、長年外國人に扉を閉ざしてきたこの國に深く引きつけられた。「大多數の地方では、夜に電気もない。空港から市中心部への道路はただの細い道。當時中國に西洋人はいくらもいなかった。中國語を話せる西洋人となると、なおさらだ。當時中國側は私を電球工場などへ案內した。夜になると、手品のショーへも連れて行かれた」。
1984年5月の訪中では、中國側の熱烈な歓待を受けた。數度の會合の後、中國政府の體育部長がリー氏にロス五輪への參加を伝えた。リー氏は中國側に、ユベロス會長宛の書簡を書くよう求めた。「當初彼らは口頭で參加を伝え、文書にまでする必要はないと考えていた。だが私は再度要求した。最終的に彼らは、親切にもあの書簡を渡してくれた。すべての過程は完璧だった」。
だが、誰よりも喜んだのはユベロス會長だ。ユベロス會長は「あれはわたしの人生にとって、1つの転換點だった」と語る。ユベロス會長のキューバ訪問は成功しなかったが、リー氏の中國訪問は思いがけない成功を収めた。ユベロス會長は「中國の決定によって、ロス五輪はバランスを取り戻した」と強調する。
最終的に、ロス五輪をボイコットしたのは14カ國だけだった。ロス五輪は経済的にも政治的にも成功を収めた。ユベロス會長は開會式で中國選手団が受けた熱烈な歓迎を今も覚えている。中華人民共和國の選手団が會場に姿を現すと、9萬人もの観衆が立ち上がって歓呼の聲を上げた。それはオリンピックの新たなスタートを告げる光景だった。ある中國人選手が米國の子どもたちに會いたいと言った時、リー氏は自分の娘2人を彼らと遊ばせた。その時の寫真は今も大切にしている。
2年前に米オリンピック委員會と中國オリンピック委員會が協力文書に調印した際、ユベロス會長は中國側の劉鵬會長にロス五輪の聖火トーチを寄贈した。居合わせた人によると、それはとても感動的なシーンだったという。
すでに齢70歳のユベロス會長は今年8月、米選手団を引き連れ、感謝の念を胸に北京五輪に參加する。ユベロス會長はオリンピックを救ったのは北京であり、オリンピックのあり方を変えたのも北京だと考えている。
「人民網日本語版」2008年7月16日 |