4月中旬、京都郊外の風(fēng)景スポット嵐山は新緑に溢れた。100年以上前のこの時期、若かった周恩來氏はここを訪れ、有名な詩集『雨中嵐山』を殘し、日本に渡って國救済の道を探る時、最初の困惑から真理を悟るまでに至ったと表現(xiàn)した。
周恩來氏を研究する學(xué)者で法政大學(xué)名譽教授の王敏氏によると、當(dāng)時の日本は西洋の新思想に觸れ、各種の社會思潮が集まると同時に軍國主義も動き出そうとしていた。周恩來氏は自ら視察し學(xué)ぶことで中國を救う方法を探そうと考えていた。
1917年10月、周恩來氏は東京の東亜高等予備校で日本語を?qū)Wび、日本の大學(xué)受験の勉強をした。日記に、鉄の杵も磨けば針になるという決心で學(xué)ぶ必要があると記している。
周恩來氏は當(dāng)時、神田神保町付近に住んでいた。ここは向上心のある中國人留學(xué)生が集まる地域で、彼らは集會や革命書物の編集などを行い、國救済の道を探っていた。
記者は今では日本最大の書店ストリートになった神保町を訪れ、古い看板を掲げた書店が軒を連ねているのを目にした。當(dāng)時、周恩來氏ここで中國の雑誌や新聞、新文化運動雑誌『新青年』などをよく買っていた。
『周恩來旅日日記』(以下、『旅日日記』)には神保町書店ストリートにある東京堂書店が何度も登場する。彼はかつてここでロシア十月革命に関する書籍を立ち読みし、十月革命後の政治黨派を暗記し、日記にまとめた。またこの時期、日本の早期のマルクス?レーニン主義を広めた人物の作品も読んだ。
1918年5月の『中日共同防敵軍事協(xié)定』調(diào)印後、日本にいる中國人留學(xué)生は大規(guī)模な抗議活動を行った。『旅日日記』を読むと、この時期に周恩來氏は常に國救済を考えていたことがうかがえる。周恩來氏を研究する一部の中日両國の學(xué)者は、この抗議活動は周恩來氏の留學(xué)における重要なターニングポイントになり、彼の思想と信仰は大きく変わったと見ている。
當(dāng)時、國內(nèi)で次々と起こる出來事と日本軍國主義の野心により、周恩來氏は日本での學(xué)業(yè)を諦めて帰國することを決めた。
1919年、日本を去る前日、周恩來氏は京都の嵐山などを訪れ、『雨中嵐山』を含む多くの詩集を殘した。『雨中嵐山』に記した「一點光明」は、周恩來氏が社會主義とマルクス主義の思想に觸れた感想だとみられている。
周恩來氏がかつて學(xué)んだ東亜高等予備校は、今は公園になっている。1988年の周恩來生誕100周年の際、日中友好団體は公園に周恩來記念碑を設(shè)置した。石碑には日本語で「周恩來ここに學(xué)ぶ」と刻まれ、隣に周恩來氏の紹介があり、日本人が尊敬していることがわかる。