北京週報誌専家 清水由実
今年10月1日に中華人民共和國は建國60周年を迎える。中國を代表するいくつかの都市において60年の歩みを取り上げる本誌の60周年記念企畫で8月下旬、広西チワン族自治區の南寧市を訪れた。南寧市と聞いても、ああ、広西チワン族自治區の區都、と思い浮かべる日本人は決して多くはないだろう。広西チワン族自治區と言えば、日本人の頭に浮かぶのは桂林だろう。桂林は日本ではさまざまなテレビCMにも使われ、実際に観光で訪れた人も相當な數にのぼる。だが、広西チワン族自治區の政治の中心は建國以來ずっと、北京から南西に2240㎞のところにある南寧であった。
1949年10月1日に中華人民共和國が成立したあと、同年12月4日、中國人民解放軍が広西チワン族自治區南寧市に入城、この日から新しい南寧市の一歩がスタートした。
04年からは毎年秋に東南アジア諸國連合(ASEAN)博覧會が南寧市で開催されるようになり、これが、南寧市が大きく発展に向けて飛躍するきっかけとなった。
そんな南寧市で、ずっと1つの仕事に攜わってきた人々に、彼らが仕事を通して感じた60年の移り変わりを聞いた。
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<あるドライバーの目─南寧市街の変遷を見つづけて>
南寧市に生まれ、16歳のときに空軍の兵隊となった黃平さん(55歳)は、その後、文化大革命の時期に農村へ行き労働に従事したあと、80年代に南寧市の共産黨機関の専屬ドライバーとなる。軍隊時代に運転免許を取得した黃さんだが、「7、80年代にはまだ乗用車よりも大型トラックを運転する機會が多かった」という。「當時は道路を行き交う乗用車のほとんどが企業や機関の所有するもの」であった。だが、21世紀に入り、04年からアセアン博覧會が開催されるとの決定を受け、03年ごろから急激にマイカーを持つ人が増え、「今では日に200臺ぐらいは増えているのではないか」と黃さんは言う。
市內の建物も大きく様変わりした。「60年代には市內で最も高い建物は、1953年に消防施設として建てられた高さ29.4mの望火樓だった」という。資料によると、當時の戀人同士の間では、デートの待ち合わせ場所として「望火樓の下で會いましょう」の合言葉が流行していたという。その後、高層ビルが続々と建てられたため、消防施設としての機能を失い、1988年に使用停止となり、01年に南寧市の保護文化財となった。そして、今や、南寧市で最も高い建物は2005年に建てられた高さ276mの地王大廈となった。
60年代には南寧市で最も高かった望火樓だが、今は周囲を集合住宅に囲まれ、歴史の遺物となった。
いま、市內で最も高い地王大廈(左手前)は南寧市初の本格的ビジネスビルだ(寫真?繆暁陽)