中國人民解放軍の『第四野戦軍の衛(wèi)生工作の歴史』には、第四野戦軍の醫(yī)療関係の事業(yè)の歴史が詳しく紹介されており、日本國籍の醫(yī)療関係者、中國の古くからの友人―麥倉元さんのことも記載されている。
麥倉元(1915-)、四國愛媛県三津浜町の醫(yī)師の家庭に生まれた。小學(xué)校と中學(xué)校の時にすでに中國に興味をもち、中國で醫(yī)療関係の仕事に攜わる夢を持っていた。1941年1月、北海道大學(xué)出身の麥倉元さんは軍醫(yī)候補として中國東北の黒龍江省の孫呉第一陸軍病院、そして北安陸軍病院に派遣され、5年間にわたって、日本の軍國主義者のために勤務(wù)した。
日本の敗戦後、麥倉元さんと北安陸軍病院のその他の醫(yī)療関係者は東北民主連軍(八路軍とも呼ばれていた)によって正式に登用された。1946年5月、麥倉元さんは自分から進んで八路軍の克山病院で働くことを願い出て、克山省立病院に派遣された。この期間に、麥倉元さんと日本人の醫(yī)療関係者は苦労を問わず、仕事に熱心で、責(zé)任感をもち、八路軍をたいへん助けてくれた。
東北民主連軍時期の麥倉元さん(前の右から2人目)
1947年9月、麥倉元さんは他の8人とともに緊急救助手術(shù)チームをつくり、吉林省開通県に駆けつけ、四平の戦闘の前線における救助活動に參加した。その時、麥倉元さんが何度も生死を忘れて、負傷兵を救ったことは、中國の人々を感動させ、みんなこの日本人の八路軍醫(yī)師の貴ぶべき精神に感心した。また、麥倉元さんは前後して3回にわたって野戦病院の設(shè)立に取り組んだ。
東北の解放後、麥倉元さんは解放軍の部隊とともに広州に行って、メスを持ち新中國の解放事業(yè)のため自分の力を貢獻した。1950年2月、國民黨の爆撃機の絶えまない爆撃を避けるため、麥倉元さんは部隊の療養(yǎng)院といっしょに湖南省耒陽県に移り、中國人民解放軍第70陸軍病院と改稱された療養(yǎng)院で結(jié)核などの內(nèi)科疾病の治療に攜わった。この期間、麥倉元さんを初めとする100人余りの日本人の醫(yī)療関係者は、中國の兵士たちと深い友情を結(jié)んだ。
1953年5月、麥倉元さんは中國に留用された日本人たちといっしょに帰國の途についた。中日國交正?;违衰濠`スを耳にしてから、麥倉元さんは、ずっと心待ちしてきた日が來たので、本當(dāng)にうれしいと語り、中日両國は一衣帯水の隣國であるため、相互友好と相互信頼を守り、確固とした中日友好の基盤を打ち固めていくことを願っている。
?チャイナネット?2007年9月25日