兵頭義清(1928―)さん、日本愛媛県の生まれ、1943年9月に中國東北のハルビンに來て、青年開拓先導訓練所で學び、かいらい満州國工業大學、醫科大學や建國大學への進學を目指していた。しかし、1年後、日本が敗戦し、降伏した。兵頭さんは中國東北に殘った。
1946年9月、18歳の兵頭さんは東北民主連軍に參加し、部隊に従って東北から西南まで解放戦爭を戦い抜き、?三下江南?(松花江以南に三回も進軍する)戦闘、四平の戦闘、長春を包囲する戦闘、遼寧西部の戦闘、瀋陽進撃、天津を解放する戦闘及び宜沙、湘西を南下する戦闘など數多くの解放戦爭に參加し、7回手柄を立てた。
1958年7月に帰國後、兵頭さんはずっと中日友好事業に寄與してきた。數年來、兵頭さんは獻身的で、こつこつと中日友好事業及び中日経済往來のために寄與し、中日両國の関係者に高く評価されている。
1967年、毛沢東主席、周恩來総理は北京の人民大會堂で兵頭さん(左から2人目)らを會見する
兵頭さんは「元帥」というニックネームを持っている。これは周恩來総理との會見にさかのぼることができる。1971年2月24日、周恩來総理は人民大會堂で日本國際貿易促進協會関西本部の木村一三専務理事と田中脩二郎常務理事が率いる代表団一行と會見した際、中國側の隨行員が名簿の順で兵頭義清さんの名前を紹介すると、「兵頭?兵士のかしらというのは元帥のことではないか」、と周総理は思わず微笑んで冗談を言った。そのときから、「兵士のかしらというのは元帥のことです」というエピソードが中日両國の関係者の間で広く伝わることになった。兵頭さんは人と會うとき、知人は直接苗字を省略し、親しく「元帥」と呼んでいた。
人民大會堂で兵頭さんたちと會見してから、貿易促進會に勤務する彼らと手際よく連係を取るため、周恩來総理はわざと兵頭さんと武吉次郎さんに自転車2臺を贈った。これは兵頭さんにとって最も光栄なこととなった。
?チャイナネット?2007年9月25日