持久隻仁さん
新中國成立前後に、新中國のアニメーション映畫に関心を寄せていた人々は、?方明?という名前を熟知していた。実際は、「方明」という人は中國の革命と新たなる建設に參加し、中國を熱愛している日本人の持久隻仁さんのことである。
持久隻仁さん(1919―1999年)、東京の生まれ。小さい時にアニメーションに夢中になり、中學校を卒業してから、?日本美術學校?に合格、卒業。1939年に?蕓術映畫社?に入り、アニメーション映畫の製作に勤めた。1945年5月、家族を連れて、中國の長春に移住し、満州映畫協會に加盟し、誠意をこめて、自分の持つ技術を中國の若者に伝授した。
1950年2月、東北映畫製作工場の職員たちの記念寫真(前の右から3人目は持久隻仁さん)
日本の降伏後、持久さんは中國共産黨の地下組織及び日本人の中で進歩的な人々の影響を受け、1946年5月、中國共産黨主導の東北映畫會社に入社した。1946年10月1日、東北映畫會社は?東北映畫製作工場?を設立した。持久さんはこの製作工場で中國第一作の人形劇映畫『皇帝の夢』の動畫デザイナー、中國第1のアニメーション映畫『かめの中のスッポン』の監督兼動畫デザイナーを次々と勤めた。1950年2月、持久さんは上海に転職し、特偉さん、萬超塵さんなどとともに、上海映畫製作工場美術チームをつくり、引き続きアニメーション映畫の創作に力を注いだ。
1953年8月、持久さんは數多くの中國殘留日本人とともに帰國し、1967年から1979年まで、日本中國通信社で中國の発展狀況を報道する仕事に攜わり、1985年から1986年まで、北京映畫學院の講師として、アニメーション映畫の授業を行った。帰國してから、日本童映株式會社の社長を勤めた。1999年、病気で逝去。
持久さんは日本の人形劇映畫の創始者で、中國で1番目の人形劇映畫のプロデューサーであり、『中國映畫大辭書』に記載されている唯一の日本人でもある。特に注意すべきなのは、持久さんは4世代にわたって中日友好事業に貢獻していることである。
?チャイナネット?2007年9月25日