これに加え、毛主席には毎年まとまった額の支出がある。その昔、中國共産黨の創(chuàng)立初期に、國民政府の教育総長を務(wù)めた章士釗が毛主席に數(shù)百銀元を貸し、革命事業(yè)の資金援助をしたことがある。毛主席はこれをよく覚えていて、忘れることがなかった。北京入城後には毎年、春節(jié)(舊正月)の2、3日前に、自ら秘書を手配して個人の原稿料から2千元を章氏の家に屆けさせていた。これは、章氏が香港で亡くなるまで、毎年続けられた。
1976年9月、身辺警護(hù)員の呉連登が毛主席の遺體を人民大會堂に護(hù)送し、人々がその姿を仰ぎ見た時、この老人には、何組かの人民服を除けば、貯金は全くなく、高級な服は一著もなく、金銀寶石の一つもなく、子供に遺す財産の遺言もなかった。この老人の死後には、彼が深く愛して魅せられた8萬冊以上の書籍だけがあった。