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芥川賞作家、楊逸さんインタビュー |
発信時間: 2008-07-24 | チャイナネット |
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第139回芥川賞の選考委員會は15日、中國人初となる楊逸さんの「時が滲む朝」を受賞作に選んだ。芥川賞(正式名稱「芥川龍之介賞」)は、芥川龍之介(1892~1927)を記念して1935年に設立された純文學の新人賞。毎年受賞者の発表は大手メディアが一斉に報道し、大いに盛り上がる。 18日午後、東京の文藝春秋編集部に楊逸さんを訪ねた。いちばんしたい事を尋ねると「特にしたい事はないですが、時間があれば、帰國して両親に會い、なにか食べたいですね」との答えが返ってきた。発音には東北なまりがあり、さっぱりとした人柄だ。本名は「劉鞘」、哈爾濱(ハルビン)出身の44歳。哈爾濱市第5中學で中學?高校時代を過ごし、その後ある大學に進學した。だが、そこでの2年間の大學生活については口が重い。「わたしが進學したのはだめな大學で、誰も知りません。卒業もしてませんし」。 1987年に日本に留學した。日本語も日本に來てから學んだ。來日後4年でお茶の水女子大學の教育學部地理學科に入學。東京の中心に位置し、秋葉原の電気街や東京駅にも近い、有名國立大學だ。 楊逸さんは兄弟姉妹5人の大家族で育った。現在父は77歳、母は75歳、妹の1人は九州にいる。子ども時代のことになると、少し感傷的になる。父の劉野さんは中學と大學で教壇に立ち、母も小學校の先生だった。文革中、両親は黒竜江省蘭西県に下放され、いちばん上の姉は下放先の北大荒で命を落とした。 中國文學専攻の大學教授を父に持つと聞き、家庭での影響の有無を尋ねると「家は當時貧しく、ご飯を食べられればいいという狀態だったので、文學的な環境だったとは言えません」とのこと。だが、中國ではいつも作文を先生に褒められ、模範にされていたと聞く。「ものを書くのが好きなんです」という楊逸さんだが、日本語で文章を書くのはやはり「必要に迫られどうしようもなく」のことだった。 大學卒業後、日本の中國語新聞2社に勤めたが、給料が低すぎるので中國語教師に転職した。2人の子どもが相次いで生まれ、何年も文章を書かない日が続いた。 楊逸さんが日本語での創作に挑戦したのは、危機に駆られてのことだ。3年前、日本メディアは中國で「反日デモ」が勃発したとして、天地を覆い盡くすような報道を行った。これを受け、彼女の生徒の數も急激に減った。「あの時は、特に暇だったんです」と、楊逸さんは意味深長に語る。 |
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