伊澤眞伎氏の証言文書の寫真。 |
伊澤彌喜太の長女、釣魚島は中國に返すべきと主張
伊澤彌喜太の長女である伊澤真伎は1901年2月に黃尾嶼に生まれた。伊澤真伎は1972年1月8日に口述した內容を毛筆で代筆してもらい、「尖閣列島についての証言」を記録した。伊澤真伎はその中で、父の伊澤彌喜太が1891年に初上陸し開発したことを明かし、かつ釣魚島は「その故郷である中國に返還すべき」と明確に指摘した。筆者はここで、証言の訳文の一部をここに掲載しよう。
「私は尖閣列島(訳注:釣魚島列島)の黃尾島の古賀村に生まれた。父は井澤彌喜太(訳注:伊澤彌喜太であるはずだが、口述のため記録に間違いがある)。父は古賀辰四郎の業(yè)務主任を努め、同島でかつお節(jié)工場を経営し、アホウドリの羽毛や貝殻などを集めていた。現在は新聞などにより、古賀辰四郎が初めて同島を発見した人物とされているが、これは真っ赤な噓であり、絶対にありえないことだ。なぜなら父が明治24年(1891年)に魚釣島(釣魚島)、黃尾島に漁に出かけ、海産物を捕獲しアホウドリの羽毛を集めていたことが、文書によって記録されているからだ……(中略)父は上陸後に調査を実施し、洞窟內に中國の服を著た骸骨を発見した。今思うと、父が上陸する前に、中國人がここを訪れていた可能性があるようだ。父と古賀辰四郎が知り合ったのは、當時豊かだった古賀が父に対して、『あなたの沖縄の事業(yè)は資金が必要だから、協(xié)力しようではないか』と持ちかけたからだ。古賀が出資したため、名義上は古賀のものとなったが、すべての実務は父に全権委任されていた。古賀もまた、父に現地の自由な経営を許可したと話したことがある」
「古賀が明治28年(1895年)に政府に提出した開拓申請書には、明治17年(1884年)に発見されたと記されていた。これは古賀が弁護士に委託し捏造したもので、絶対に事実ではない」
「父が同島嶼を発見した時に、すでに中國人の遺體があった。當時の日本政府もまた、中國が同島嶼に命名していたことを知っていたが、その後日清戦爭(訳注:甲午戦爭)により臺灣と同時に盜みとり、明治29年(1896年)に正式に日本領に編入させた」
「日中両國は良好な関係を築くべきであり、その際に日本が先占していたと無理な主張をするのは間違いだ。日本は敗戦時に、臺灣と同時に盜みとった島嶼を中國に返還すると約束しており、尖閣列島(訳者注:釣魚島)は當然、その故郷である中國に返還するべきだ」
伊澤彌喜太は最も早く釣魚島に上陸し漁をした日本人であり、その長女が釣魚島を中國領であることを証明した。そのために、日本政府は伊澤彌喜太について觸れず、古賀辰四郎を大々的に表彰したのかもしれない。
しかし古賀辰四郎が釣魚島の開発権を得たことは事実上、臺灣を植民地支配していた當時の日本による、釣魚島に対する植民地開拓である。1945年に日本がポツダム宣言を受け入れ、無條件降伏を宣言した時に、その海外の植民地開拓のすべての権利が終了したはずだ。(筆者:劉江永 清華大學現代國際関係研究院副院長)
「中國網日本語版(チャイナネット)」2014年1月20日