中國共産黨は中國の抗日戦爭の柱であった。中國共産黨が指導した敵陣後方の武裝勢力は日本軍に強烈な打撃を與えた。だが近年、中國共産黨の抗日戦爭における功績を否定しようとする歴史ニヒリズムが現れている?!腹伯b黨の軍隊は動くばかりで攻撃しなかった」。「共産黨の軍隊は『1割は抗日、2割は國民黨対策、7割は共産黨発展』のために活動していた」。中國共産黨が築いた抗日根拠地は「占領した縄張り」に過ぎなかった――。こうした問題を全面的に認識するため、抗日戦爭史を研究する多くの學者が、日本や西側國家の明確な証拠と研究成果を活用し、こうした言論に有効な反論を試みている。
(2)根拠地の役割:日本軍の消耗
薩蘇氏によると、中國共産黨が指導した敵陣後方の抗日戦爭は、抗日戦爭の勝利にとって極めて重要な役割を演じた?!笖酬囜岱饯螒閳訾趣辘铯鄙轿鳏摔い瓶谷諔闋帳毡拒姢蛳膜筏胜堡欷?、日本軍は、北京から華北平原を通っていっきに進軍し、中國を滅ぼしていたことだろう」
薩蘇氏によると、日本の軍事専門家は1890年頃にはすでに、「北京から江南に南下して中國を滅ぼす」という戦略路線を設計していた。彼らはさらに、「西安から出発して四川?貴州地區に入る」という2本目の路線も用意していた。
だが日本軍は1937年に全面的な中國侵略戦爭を発動してからも長期にわたって南下することができなかった。薩蘇氏によると、當時の日本は、中國が敵陣後方の戦場を切り開くことをまったく予想していなかったという?!笖酬囜岱饯螒閳訾肖觊_かれたのはまさに、日本が南下を準備していた要となる時期だった。とりわけ山西がある黃土高原は地理的に華北全體を俯瞰する要所であり、後方勤務への依存度が高かった日本軍はこれを非常に案じた」
日本側の資料もこの観點を裏受けている。薩蘇氏は記者に、「極秘」と書かれた1942年の日本軍の「北支那方面敵情要図」を示した。この図には、敵陣後方の戦場における徐向前集団や聶栄臻集団、劉伯承集団、賀竜集団などの軍事力の存在が示されていた。「日本軍は華北において、八路軍の各種の武裝勢力の分布を細かく記録していた。敵陣後方の戦場が日本軍に対して大きな影響を持っていたことを証明している」と薩蘇氏は指摘する。
中國社會科學院世界歴史研究所の湯重南研究員によると、敵陣後方の抗日根拠地は、日本の「戦いによって戦いを養う」という戦略に大きな打撃を與えた。「日本は『速戦即決』の目論みが失敗した後、占領區での常軌を逸した略奪を補給の主要方式とした??谷栅诬娙摔让耖g人は日本軍の交通ラインや施設を破壊することで、日本軍を大きく消耗させた」
中國共産黨中央黨史研究室の元副主任である李忠傑氏によると、中國共産黨の指導した八路軍と新四軍、華南人民抗日遊撃隊などは、全國の抗日戦爭において、敵に対する戦闘を12萬5千回にわたって繰り返し、日本軍と傀儡軍の171萬4千人を殲滅した。そのうち日本軍は52萬7千人にのぼった。「國民黨政府軍による正面戦場が膠著狀態にある時、中國共産黨が指導する敵陣後方の戦場は抗日戦爭の主戦場となった」
米國の軍事評論家の威爾納(中國語音訳)も中國共産黨の敵陣後方の戦場における巨大な貢獻を評価している。1945年に書かれた『日本大陸戦略の危機』には、「遊撃戦が中國において擔った戦略任務を擔うことのできる遊撃戦はほかのどこにもない」との記述がある。
?中國網日本語版(チャイナネット)? 2015年9月18日