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この30年間の北京市民の住宅事情の変化
発信時間: 2008-10-23 | チャイナネット

 

2000年に完工された茉莉苑団地では、高層ビルがずらりと並び、秩序整然と配置され、周辺の緑化ベルト地帯も広く、特に団地中央部にある池の水は団地に生気の満ちた存在感を添えている。記者は3號ビルに入り、エレベーターで16階までのぼり、趙さんのドアをノックした。

 

趙さんは今年76歳で、まだ元気で、定年退職以前は化學(xué)工業(yè)総工場の技師であった。趙さんは親切にも私を家に招じ入れた。「広い応接間ですね!」と私は感情を抑えきれなくなって言った。趙さんの話によると、この住宅は2003年に購入したもので、居間3と応接間1の構(gòu)造で、総面積142平方メートル、応接間約40平方メートルである。「あなたに笑われるかも知れませんが、ここに引っ越したばかりの頃、私は3日続けてよく眠れず、非常に興奮していました。思いがけなく、年を取ってからこんなにすばらしい家に住むことができ、私は心から國の改革開放政策のおかげだと感謝し、黨と政府の住宅制度改革のすばらしい政策に感謝しています」とうれしそうに語った。

 

改革開放以後の北京の住宅事情の変化について、趙さんは語り続けた。「わたしは自ら天地がくつがえるというような変化を體験しました。1978年以前は、住民が住宅のために悩み、前世紀の8、90年代に入ってから一応だれでも住宅に恵まれるようになり、今は、政府が私達を助けて引き続き力を入れてくれ、住民たちがハイレベルの住宅を持つ方向へと進んでいます……」とゆっくり話してくれた。

 

70年代の頃、趙さんの3世代、8人がともに24平方メートル未満の二間の平屋に住んでいた。その年代では、まず生産、その後で生活、より多く蓄積し、より少なく消費することが提唱され、住宅建設(shè)のスピードは到底都市人口の増加のスピードに追いつけなかった。1978年、北京市の1人當たりの住宅面積はわずか4.2平方メートルでしかなかった。のちに趙さんの息子さんが結(jié)婚し、家がとても狹く、一緒に住みにくくなくなったため、家の前にダブルベッド1つしか置くことのできない小さな小屋を建てることを余儀なくされた。家にほとんど家具はなく、著替えて洗濯した著物や布団などは何個かの段ボール箱に詰め込んでいた。天気が良い場合、屋外でご飯を作り、雨や雪の日になると、かまどを屋內(nèi)に移してご飯を作るほかなく、部屋中、油の煙だらけだった。

 

その頃は、都市部住民の住宅問題の解決は「待つ、頼る、もらう」(國による住宅建設(shè)を待ち、在職しているところからの住宅分配に頼り、勤務(wù)部門から住宅を分配してもらう)以外になかった。趙さんもこのように、勤務(wù)部門による住宅の分配ができるだけ早く自分の番になるのを心待ちしていたが、勤務(wù)している國営化學(xué)工業(yè)企業(yè)では、住宅の分配を待つ人がどれぐらいいるか分からなかった。住宅分配の情景は今なお生々しく趙さんの記憶に殘っている――「ちょっとそれらしいことを耳にすると、付け屆けをするもの、よろしくと書いた紙を渡すもの、結(jié)婚を申し出るもの、はては包丁を手にしておどすもの……家屋管理課の入口は壊れそうになった。その実、家屋の分配を待つ大多數(shù)の人にとって、水の中のお月様を眺めるようで、ほとんど見込みはなかったが、人々はやはり毎日待ちつづけ、毎月思い、毎年待っていたものでした。」

 

趙さん一家はその二間の平屋に20年余り住んでいた。當時、北京の住居の建物はすべて灰色の5階建てで、ごく少數(shù)の「ユニット式住宅」を除いて、ほとんどの建物は獨立した炊事場とトイレがない簡易式の長い廊下のある建物であったにもかかわらず、趙さんはそれでも非常に高層の建物に住んでいる人たちを羨ましく思った。

 

前世紀80年代から新住宅の時代が始まった。住宅政策に分水嶺が現(xiàn)れた。一方では「福祉としての家屋」が依然として主導(dǎo)的地位を占め、他方ではもともと分配された「福祉としての家屋」やいろいろな勤務(wù)部門が自分たちで建てた國有家屋を減価償卻して利用者に転売した。1989年に、趙さんは勤務(wù)部門がもともと分配してくれた二間の平屋をその勤続年數(shù)による優(yōu)遇額および減価償卻額を差し引いて上での優(yōu)遇価格、1萬元で買い取った。

 

すぐ1998年になった。國務(wù)院の『都市部の住宅改革をさらに深化させ、住宅の建設(shè)をスピードアップすることに関する通達』をメルクマールとして、住宅制度の改革が全面的に展開された。住宅を?qū)g物の形で分配するやり方がなくなり、住宅分配の貨幣化を?qū)g行することになった。多くの人の住宅取得の道には根本的な変化が生じた。

 

2000年、趙さんが住んでいた二間の小さな平屋が立ち退きになることになり、36萬元の立ち退き補償金をもらった。5人の子女がさらに30萬元を出し合って、それに趙さんの長年の貯えを加えて、70數(shù)萬元で今のこの南北への風(fēng)通しのよい、明るい新建物の住宅をを買い取り、趙さんは長年らいの高層住宅に住む夢が実現(xiàn)された。

 

記者の手には1組のデータがあり、それはここ數(shù)年らいにおける北京の人たちの住宅面積の増大を裏付けることができる。2000年の1人當たり住宅の使用面積は16.6平方メートル、2001年は17.61平方メートル、2002年は18.2平方メートル、2003年は18.7平方メートル、2004年は19.1平方メートル、2005年は19.5平方メートル、2006年は20.06平方メートルとなった。

 

ここ5年の北京の1人當たり住宅使用面積は年平均3.1%増となり、2007年は1978年より4倍以上増えた。

 

「チャイナネット」2008年10月23日

 

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