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駐米大使、中米関係30年間の発展を積極的に評価
発信時間: 2009-01-11 | チャイナネット

資料:中米國交樹立の経緯

前世紀70年代の初め、國際情勢の変化と発展に伴って、中米両國のトップは両國関係の改善が両國の共通の利益にかなうことをはっきりと意識した。

1971年4月10日から17日にかけて、アメリカ卓球協會會長のグレム?スティンホウェン氏を団長としたアメリカ卓球代表団が中國を訪問した。これは新中國建國以後初めて中國を訪問したアメリカの団體であった。アメリカ卓球代表団の訪中は、あらためて中米交流の扉を開けることになり、中米関係の発展のために幸先良いスタートとなり、そのため「小さなピンポンが大きな地球を動かした」「ピンポン外交」と稱さた。

1971年7月9日から11日にかけて、ニクソンアメリカ大統領の特使、アメリカ國家安全事務擔當補佐官のキッシンジャー氏が內々に中國を訪問し、ニクソン氏の訪中の地ならしをした。1972年2月21日から28日にかけて、ニクソン大統領は周恩來中國國務院総理の招きで中國を訪問した。毛沢東主席とニクソン大統領の太平洋に跨る握手は、中米間の20數年にわたる固い氷をを打ち砕いた。ニクソン氏の訪中の際に、中米雙方は1972年2月28日上海で『中米共同コミュニケ』、つまり『上海コミュニケ』を発表した。コミュニケの中で、雙方は重要で大きな変化と、きわめて大きな激動のさなかにある國際情勢を振り返り、それぞれの立場と姿勢をはっきりと述べ、共通の基本原則を確定した。しかし、まだ中米関係正常化の実現に至らぬうちに、ニクソン氏は「ウォーターゲート事件」のためにはやばやと失腳してしまった。次期大統領のフォード氏もさまざまな原因で中米関係の新しいブレークスルーを実現するに至らなかった。

1977年、カーター氏がアメリカ大統領となった。中國の地域と世界における役割が日増し重要になっている事実に基づいて、カーター政府は中國との関係正常化をその対外政策の主要な目標とした。1977年8月と1978年5月、カーター氏はそれぞれ國務長官のバンス氏と國家安全事務擔當補佐官のブレジンスキー氏を中國に派遣し、中米関係正常化について中國側と協議を行った。1978年7月、中米両國の代表は北京で國交樹立についての交渉を始めた。臺灣問題は交渉の肝心な點であった。1978年12月13日、中國の指導者鄧小平氏は北京でアメリカ側交渉代表のウッドコック氏と會見し、國交樹立に関する共同コミュニケ案について直接氏と意見を交換した。米側はその後改正案を提出し、基本的に中國側の要求を受け入れた。肝心な時點に、鄧小平氏は自ら交渉に參與し、中米國交樹立の交渉を數日間でまとめ上げた。

1978年12月16日、中米両國は『中華人民共和國とアメリカ合衆國の外交関係樹立に関する共同コミュニケ』、つまり中米國交樹立コミュニケを発表した。中米両國は1979年1月1日から相互承認するとともに外交関係を樹立することを明らかにした。コミュニケは上海コミュニケの中で雙方が一致して同意している諸原則を重ねて言明し、そして1979年3月1日から互いに大使を派遣し、大使館を設置することを決定した。

「北京週報日本語版」 2009年1月9日

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