第三に、中國の長期間の抗日戦爭と人民戦爭は日本ファシズムを釘付けにし、世界分割、世界覇権、暴政実施というドイツ、イタリア、日本ファシズム樞軸國の侵略の企てを打破した。ファシズム國家による世界支配戦略を実施するため、日本軍は一貫してできるだけ早く中國を撃滅し、中日戦爭を終結して、「南進」または「北進」に兵を向けようとしてきた。だが中國軍民の粘り強い抵抗のため、日本軍大本営は中國から軍を撤退するどころか、反対に1940年4月にはさらに2個師団を中國に派遣することになった。同年8~10月、八路軍は百団大戦を行い、華北の日本軍に手痛い打撃を與え、日本はなおさらに軍を他地域に向けることができなくなった。1941年12月8日、日本ファシズムはついに太平洋戦爭発動の冒険に出た。この両面作戦狀態によって、日本ファシズムの完全な敗北の種が蒔かれた。正面切った戦場であった第三次長沙會戦によって、日本軍は中國の戦場の深みにはまり、容易に他地域に兵を向けることができなくなった。中國軍民が困難な抗日戦爭を持続したため、日本軍は太平洋での進攻の足取りを止めざるを得なくなった。これは日本による太平洋戦爭の継続に制約を課した決定的要因が中國の戦場であったことを力強く物語っている。
第四に、中國國民が14年間にわたる戦闘で日本ファシズムに手痛い打撃を與え、疲弊させたことが、その最終的な滅亡の重要な原因だ。いかなる戦爭も一定の物的基礎を備えたうえで行われる。前線のニーズを確保できるか否かは、戦爭勝敗の鍵を握る。日本ファシズムは1937年に対中全面侵略戦爭を発動した。短期間で決著をつけて、占領地域を揺るぎないものにし、略奪し、戦爭遂行の戦略基地にし、國力を増強して、また新たな戦爭を行うというのが、その勝手な計畫だった。だが中國國民の持続的な抗日戦爭、特に敵後方での強大な抗日ゲリラ戦は日本の企てを撹亂した。日本は中國侵略の過程で國力を増強するどころか、反対に國民経済に克服不能な困難をもたらした。(編集NA)
「人民網日本語版」2015年6月5日