北京の日本大使公邸では15日に外務(wù)大臣表彰式が行われ、団體では北京日本人會(huì)婦人委員會(huì)、個(gè)人では天津市視覚障害者日本語(yǔ)研修學(xué)校の理事長(zhǎng)を務(wù)める青木陽(yáng)子さんが受賞した。黃色に赤い模様の入ったスカートを著た青木さんは、優(yōu)雅な姿勢(shì)で表彰狀を受け取り、「どんなに困難でも、続けてさえいれば奇跡が起こると信じています」とあいさつの中で語(yǔ)った。
青木さんの人生にはまさに奇跡だ。青木さんは1961年11月に埼玉県で生まれた。父親は自動(dòng)車(chē)學(xué)校の校長(zhǎng)、母親は公務(wù)員。5歳の時(shí)に高熱で失明するが、青木さんはたゆまず努力し、抜群の成績(jī)で南山大學(xué)を卒業(yè)。その後、米國(guó)ニューヨーク州立大學(xué)に留學(xué)し、教育學(xué)の修士を獲得した。1993年8月には中國(guó)の天津市で中國(guó)語(yǔ)を?qū)Wび、卒業(yè)後の1995年に天津で中國(guó)初の無(wú)料の日本語(yǔ)學(xué)校である天津市視覚障害者日本語(yǔ)研修學(xué)校を設(shè)立し、この學(xué)校も今年で15年目を迎える。
中國(guó)教育への多大な貢獻(xiàn)により、青木さんは2000年に天津市政府から中國(guó)の永住権を與えられ、2001年には中國(guó)政府が外國(guó)人専門(mén)家に贈(zèng)る「友誼賞」も授賞した。
「チャイナネット」は外務(wù)大臣表彰式の終了後に青木さんにインタビューし、中國(guó)人視覚障害者に日本語(yǔ)を教えることになったいきさつや考えなどについて話を聞いた。
受賞する青木陽(yáng)子さん
――中國(guó)に來(lái)た理由について。
その當(dāng)時(shí)に21世紀(jì)に最も発展する國(guó)はどの國(guó)だろうかと考えた時(shí)、頭の中に中國(guó)とアラブが浮かびました。アラブに女性がいるのは不便だと言う人もいて、中國(guó)は身體障害者の數(shù)も特に多く、まずアジアの中國(guó)で第一歩を踏み出すことにしたのです。中國(guó)はアジアの中心であり、中國(guó)が発展し始めれば他の國(guó)の身體障害者問(wèn)題も解決すると思いました。中國(guó)を選んだのはそれが理由です。第一は身體障害者の問(wèn)題です。
2つ目は、個(gè)人的には第二次世界大戦と関係ありませんが、日本は中國(guó)を侵略し、私たちの罪は永遠(yuǎn)に存在しています。そのため中國(guó)で身體障害者に日本語(yǔ)を教えることが、私たち日本人が犯した罪を償うことだと考えたのです。
ですから困難に出くわした時(shí)、もし単純に中國(guó)が好きだからという理由なら、あきらめて帰國(guó)してしまうかもしれません。しかし私には大きな使命があり、必ず日中両國(guó)の友好のために貢獻(xiàn)します。