1959年から始まった民主改革は、チベット人の個々の生活をどう変えたのか、今回は北京在住の『ゲサル王』研究者?ジャンベンジャツオさん(71歳、中國社會科學院民族文學研究所)に話を聞いてみた。
短く刈り上げた白髪。四角い顔には冷靜さと根気強さがにじみ出ている。取材で伺った自宅の応接間には、壁一面にポタラ宮の掛け絨毯やきらびやかなタンカ仏畫の掛け軸が飾られていた。
そのポタラ宮の掛け絨毯をバックに、チベット族の初の博士課程の指導教官で、チベット族の長編敘事詩『ゲサル王』研究の第一人者でもあるジャンベンジャツオさんは、インタビューに応じてくれた。
■家族離散の子ども時代
「ジャンベンジャツオ」は、チベット語で「智慧の海」を意味します。1938年、彼は當時の西康県(今の四川省)巴塘県の貧しいチベット農家に生まれました。ジャンベンジャツオさんにとって、子ども時代のことで一番印象に殘っている思い出は「離散」でした。
――昔のチベットは部族社會で、異なる部族間で武力衝突が頻発していました。衝突が起こる度に、農奴や庶民たちは雙方から略奪されます。逃げ惑っているうちに、家族がばらばらになることは良く聞く話でした。我が家も、一番上の姉が家族とはぐれてしまい、母親はその後ずっと探し続けていましたが、ようやく消息が分かったのは新中國が成立し、両親がもうなくなった後のことでした。私の子ども時代の思い出の中では、離散が一番印象深いことです。
巴塘は金沙江をはさんで、チベットと隣接しています。ここは谷間にあり、海抜が比較的低いため、気候は溫暖で、景色も美しく、「関內の蘇杭、関外の巴塘」(江南の蘇州、杭州と同じように風光明媚なところだ)と稱されるほどです。昔は、ここはチベットに入る交通の要衝でもあったため、軍事上、通商上、極めて重要な地位にありました。主な住民はチベット族ですが、各民族が入り混じって生活し、文化も融合しているエリアです。
実は、巴塘はジャンベンジャツオさんの元々の故郷ではありません。彼が生まれるまで、両親と兄弟たちはずっと、チベットの芒康地區で暮らしていました。代々、芒康で農奴をしていた母親は、エスカレート化する部族間の武力衝突の苦に耐えられず、巴塘の地に逃れてきました。
ただでさえ艱難に満ちた生活でしたが、よそ者であったため、その苦労は更に増していました。父親は一家の暮らしを助けるため、出稼ぎに行ったものの思ったほど収入を得ることができず、そればかりでなく家族と長らく離れ離れの生活をせざるを得ませんでした。
――當時、交通が不便で、省都の康定までは徒歩で行くしかなく、歩いて10日間もかかりました。郵便もありませんでしたので、父が苦労して入手した布や茶葉、白砂糖などは帰郷する知り合いに頼んで、家に屆けてもらうしかありませんでした。中には、しっかり屆けてくれた人もいましたが、探してくれても住所も分からず(當時は番地などがありませんでした)、見つからないまま行方不明になった時も多かったです。金品を受け取ることができなかっただけでなく、家族が待ちに待っていた父親の消息も長い間、分からず、不安な毎日でした。
■ 母親は敬虔な仏教徒
ジャンベンジャツオさんの父親は新中國の建國後にようやく帰郷し、一家水入らずの生活を送ることができました。父親が留守の間、7人兄弟は、母親の女手一つで育てられました。ところで、母親のことを思い出すと、今でも、ジャンベンジャツオさんの心が痛む思い出があります。
――母親は敬虔な仏教徒でした。若い頃、ラマから、「前世、あなたは仏前の供え物を7つ盜んだので、今世では子どもを7人も生ませ、一緒に苦労をさせている」と言われ、母親はそれを真に受け、亡くなる直前まで罪悪感にさいなまれていました。
農奴制度は政治的な圧迫と経済的な剝奪しただけでなく、政教合一をもって人々の思想を抑圧し、決められた運命に従わせて束縛しようとしました。母親のことを思い出すと、私は、農奴制の廃止を心から願ってやみません。
當時の巴塘は、チベットのような封建農奴制は崩れており、ジャンベンジャツオさんは、人身自由こそあったが、地主と小作農に取って代わったものの、農奴制の色彩はまだ色濃く殘っていたと言います。
――昔の領主(農奴主)がそのまま地主になったため、管理方法や理念は昔のままでした。例えば、我が家の場合、種子やすべての生産コストを負擔した上、収穫の半分を地主の家に収めなければいけませんでした。子どもの時、刈りたてのはだか麥の束が、そのまま半分が地主の家に運ばれていたのをこの目で見ました。本來、麥秋は収穫する嬉しい季節のはずでしたが、當時、大人たちの間には、「秋が來れば、敵も來る」という言い回しがあるほど、心配事の多い季節でもありました。