「日本文學(xué)は実生活に影響を受ける、言わば、お刺身のような文學(xué)です。本來の姿をありのまま表現(xiàn)しなければならないのと同時(shí)に、そのタイミングも大切なんです。」楊逸は、こう説明する。刺身を作るときのように、一番いいところを切り落とし、ちょうどいいタイミングでお客の前に出すのだ。事前に作り置きすると、魚の風(fēng)味が落ちてしまうし、かといって身を骨から削いですぐに出すと、今度は生臭さが出てしまう。
また、自らの文學(xué)のルーツについて、彼女はこう言う。「私は筒井康隆の小説から多くのユーモアを?qū)Wびました。私の日本語の理解能力はそんなに高いわけではないんですけど、彼の小説の中のユーモアはなぜか言葉の壁を飛び越えて、本を手放せなくなるほどよく理解できたんです。」
私小説の苦境からの脫出
「楊逸等の外國人が書く日本語小説は、その內(nèi)容や題材において日本のこれまでの表現(xiàn)方法を打ち破りました。以前の重苦しさを打ち破り、新しい境地に達(dá)したのです。」南京師範(fàn)大學(xué)の季愛琴教授はこう述べる。
資料寫真
日本の大衆(zhòng)文學(xué)は一般庶民に近い視點(diǎn)で、日常生活の喜怒哀楽を表現(xiàn)している。純文學(xué)、特に芥川賞が認(rèn)める文學(xué)領(lǐng)域に達(dá)するものは、他の追隨を許さない言語能力は勿論だが、それ以上に「私小説」の方法でその特色を示したがるところがある。
これに対し、楊逸なりの理解はこうだ。「戦前の日本文學(xué)において、私小説が描いたのは作家の真情に基づくノンフィクションでした。しかし、ここ數(shù)年、小説家が描くのは、谷崎的な戀物語でも、石原的な暴力でもありません。それ以上に自我の要素が大きく、その自我が世界には自分一人しかいないという境地に達(dá)したとき、そこには生活の事細(xì)かな描寫が存在するのみです。」
また、中國の出版社や刊行物から原稿を頼まれた場(chǎng)合について、彼女は、將來的にはやはり自分にとって書きやすい母國語の中國語で書くかもしれない、と話した。
?中國網(wǎng)日本語版(チャイナネット)? 2010年6月13日