山辺悠喜子氏は、ごく一般的な日本人女性である。しかし、彼女と中國(guó)、中國(guó)の軍隊(duì)、そして中國(guó)人との間には特別かつ不思議な関係が存在する。人々はみな、彼女は中國(guó)解放軍に參加経験を持つ日本兵だという。
山辺悠喜子氏
12歳で海を渡り中國(guó)へ
1941年、當(dāng)時(shí)まだ12歳だった悠喜子は、父親に會(huì)うため、母親とともに遼寧省本渓市へ。當(dāng)時(shí)、彼女の父親は本渓市の日系炭鉱會(huì)社に勤めていた。幼い悠喜子は中國(guó)に來(lái)るまで、當(dāng)時(shí)まさに行われていた抗日戦爭(zhēng)(日中戦爭(zhēng))のことは全く知らなかったが、中國(guó)で生活するにつれ、彼女は身の回りで起こる多くの出來(lái)事に興味を持つようになった。
悠喜子はよく、日本人が公衆(zhòng)の面前で中國(guó)人を毆ったり罵ったりするのを見(jiàn)かけた。中國(guó)の土地で、なぜ日本人がこんなに偉そうにしているのか。中國(guó)の労働者達(dá)はどうしてこんなに貧しいのか。どうして日本人は気ままに中國(guó)人を毆ったり罵ったりするのか。たくさんの疑問(wèn)を抱えて父親に尋ねても、ただ一言「それは、彼らが中國(guó)人だからだよ。」と言われるばかり。そしてこの答えが、さらに悠喜子を混亂させるのであった。
人生が変わったきっかけは一つの鍋
1945年12月、彼女は遼寧省本渓市で東北民主連合軍に參加した。「その年、私はまだ16歳でした。」山辺氏は相手を引き込むような口調(diào)で語(yǔ)り始めた。「國(guó)民黨部隊(duì)も、共産黨部隊(duì)も私の家にやってきたことがありました。では、なぜ私が人民解放軍に參加することを選んだのか、これには食事を作る鍋が深く関わっているのです…」
「國(guó)民黨の部隊(duì)がうちの家を通りかかった時(shí)、母に鍋を借りました。部隊(duì)が引き揚(yáng)げる時(shí)には必ず返すと約束したのに、その後、鍋は壊され、何の説明もなく部隊(duì)は去っていきました。それからしばらくして、今度は共産黨の部隊(duì)がやってきて母に鍋を借りたいと言ってきました。その若い兵士の身なりがボロボロだったので、鍋は返してもらえないだろうと思い、母は家で一番古い鍋を貸すことにしました。それから1週間ほど過(guò)ぎた頃、その兵士はちゃんと鍋を返しに戻ってきました。『ありがとうございました』と言ってすぐに去って行きましたが、母が鍋の蓋を開けてみると、中にはニンジンが3本入っていたのです。當(dāng)時(shí)はみな苦しい生活だったのに、解放軍の兵士が自身の食べる分を、私たちのために取っておいてくれたのだと思うと、家族全員大変感動(dòng)しました。その時(shí)の父の言葉を今でも覚えています。『お前はこういう部隊(duì)に入るべきだ。』この一言がきっかけで、私は解放軍入隊(duì)を志願(yuàn)することとなりました。」