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聶栄臻元帥、抗日戦爭の中から日本人少女を救出

聶栄臻元帥、抗日戦爭の中から日本人少女を救出。 1940年8月21日、戦闘を指揮していた聶栄臻將軍は、指揮下にあった部隊が戦火の中から両親を失った日本人の女の子を救出したという報告を受け、司令部にその子たちを連れて來るように指示した。聶栄臻將軍が、二人のうち年かさの女の子に優しく名前を尋ねると、女の子は「興子」と答えた…

タグ: 歴史 抗日 戦爭 聶栄臻 美穂子

発信時間: 2011-06-17 11:51:07 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

1980年7月14日、北京人民大會堂で美穂子さんは聶栄臻元帥の手をしっかりと握り締め、涙を流した。40年間生き別れになっていた「父親」に會えたのだ。聶栄臻元帥も彼女の手を摑んで離そうとはしなかった。

資料寫真:日本人の女の子に優しく名前を尋ねる聶栄臻將軍(左)(1940年)

1940年8月21日、戦闘を指揮していた聶栄臻將軍は、指揮下にあった部隊が戦火の中から両親を失った日本人の女の子を救出したという報告を受け、司令部にその子たちを連れて來るように指示した。聶栄臻將軍が、二人のうち年かさの女の子に優しく名前を尋ねると、女の子は「興子」と答えた。この年かさの女の子が美穂子さんである(後に美穂子に改名)。彼女の脅えた様子を見て、聶栄臻將軍はナシを取り出し、「このナシはちゃんと洗ってあるから、食べなさい」と、親しみを込めて言った。「興子」ちゃんはやさしく接してくれる聶栄臻將軍に安心して近づき、ナシを受け取って食べた。聶栄臻將軍は、「敵は無數の同胞を殘忍にも殺害したが、この二人の子供に罪はない。この子達も戦爭の被害者だ。私たちはこの子達を保護しなくてはならない」と言い、二人を部隊で保護することを決める。聶栄臻將軍は、部隊を指揮しながら、自らの手で「興子」ちゃんに食事を與えていた。女の子も聶栄臻將軍を慕うようになり?將軍のズボンの端を握り締め、どこに行くにも影のように付いて行くようになった。敵味方を超えた愛情を注いだ聶栄臻將軍は?女の子の安全を考え、後に二人を日本の兵営に送り屆けている。しかし、二人と別れた後も、聶栄臻將軍の脳裏からはあの小さな女の子のことが消え去ることはなかったという。

1980年、『人民日報』は『日本の女の子、君はどこにいる?』という記事を掲載し、日本の『読売新聞』がこれを転載した。「40年も経って、命の恩人が見つかるなんて、感激して泣いてしまいました」。美穂子さんは、當時の寫真を持った『読売新聞』の記者が訪ねて來た日の驚きと感動をこのように語った。この時、美穂子さんは都城市に家を構え、夫と3人の娘たちと幸福に暮らしていた。

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