「一般の大多數(shù)の日本人にとって、孫文は歴史の教科書(shū)に出てくる革命家であるだけでなく、先祖から聞かされている情に厚く、気概がある古い友人です。」日本の孫文記念會(huì)の主任研究員である徐小潔博士はこのように語(yǔ)った。
3年をかけた計(jì)畫(huà)、史料研究と日本全國(guó)での証拠物品収集、整理を経て、日本の學(xué)術(shù)界から孫文と辛亥革命研究の最新成果として「孫文?日本関係人名録」という一書(shū)が今年末に日本で出版されることになっている。このプロジェクトの主要參畫(huà)者の1人である徐小潔博士は取材で、この本には1000人を超える孫文の日本人友人の氏名、生年月日、孫文との交友記録などが収集されており、學(xué)界でこれまで常識(shí)とされていた「孫文の日本での友人は300人程度」という數(shù)を凌駕する內(nèi)容になっていると明かした。
これまでの研究で、孫文の日本人の友人はほとんどが政財(cái)界の人物、政治団體構(gòu)成員、浪人などと考えられていたが、徐博士らの証拠品収集を通じて、當(dāng)時(shí)、更に多くの日本の市井の人々が孫文のアジア主義思想に共鳴して、孫文の革命に無(wú)私の援助を惜しまず、また生活の面倒もみていたことがわかった。こうした日本の友人の子孫は今も孫文との記念撮影寫(xiě)真、手紙、書(shū)などの史料を大切に保管していたという。
「たとえば、孫文の胃病を直した高野太吉という醫(yī)者の子孫は『博愛(ài)』という自筆の書(shū)を保存していました。1913年、孫文の神戸から橫浜への転居を手伝った船員は孫文の題字を保存していました。孫文の歯醫(yī)者、裁縫などをやっていた人の子孫の家には類(lèi)似の文物が見(jiàn)つかっています。こうした史料から孫文が非常に情を重んじた人だったとわかります。」
この日本人名鑑の整理は基本的に宮崎滔天の「三十三年の夢(mèng)」、外務(wù)省史料編纂などの歴史文獻(xiàn)の研究によるところが多かった。だが、日本の報(bào)道機(jī)関からこの人名録の出版予定が発表されたところ、日本全國(guó)、北は北海道、南は沖縄から電話(huà)、メールが次々と舞い込み、多くの人が主體的に自分の家には先祖と孫文との交流の証拠があると知らせてきた。彼らは祖先と孫文との友誼を非常に誇りに思っていた。
「これまで、我々は孫文が日本でこれほど多くの民間人と交流していたとは思っていませんでした。彼らの子孫は多くの寫(xiě)真、手紙、書(shū)をしっかりと保存していました。孫文の日本での交流の広がり、日本の民間に與えた影響の大きさ、深さは我々の想像を悠に超えていました。」
こうした日本の友人の子孫にとって、孫文は書(shū)籍の中の型にはまった歴史的人物というだけでなく、生活の中で身近な祖先と交流のあった人物であることは間違いない。宮崎滔天の孫である宮崎蕗苳(ふき)さんは、自分にとって孫文は祖母と父親がよく言っていた「背の低い男の人」でしかなかったと言い、梅屋莊吉のひ孫である小坂文乃さんはよく楽しそうに梅屋家で行われた孫文と宋慶齢の婚禮の様子を話(huà)す。
11月1日から12月11日にかけ、神戸の孫文記念館では「日本と孫文」特別展が開(kāi)催される。ここには選りすぐられた約20枚の孫文と日本の友人の子孫から提供された寫(xiě)真、手紙、書(shū)などの実物が展示される予定になっている。
徐博士によれば、こうした文物の多くは初めて対外公開(kāi)されるという。この中に孫文が1923年5月に日本人記者、濱野末太郎の取材を受けたあとに書(shū)いた「日本國(guó)民への手紙」がある。その內(nèi)容には次の年に孫文が神戸で行った「大アジア主義」の演説と深い淵源がある。「この英文の手紙は宋慶齢が腳色を加えたかもしれない。」と言われている。また、孫文が日露戦爭(zhēng)の後、日本の首相だった犬養(yǎng)毅にあてた手紙も公開(kāi)される。「ずっと民間に流れており、今回初めて見(jiàn)つかったもの。」だという。
徐博士は特に孫文が辛亥革命後、ヨーロッパから香港経由で上海に戻ったときに撮影した有名な寫(xiě)真を強(qiáng)調(diào)する。「この寫(xiě)真に寫(xiě)っている日本人の名前や身分は歴史學(xué)會(huì)でずっと謎とされてきました。今回の収集で、多くの日本人が電話(huà)で寫(xiě)真に寫(xiě)っているのは自分の祖先であると知らせてくれました。」
「中國(guó)網(wǎng)日本語(yǔ)版(チャイナネット)」2011年10月9日