自腹を切って中國の客人を招待した日本政治家と辭職のリスクを負って中國に輸出信用を供與した政府高官
1963年4月29日、ランの専門家である中國共産黨福建省委員會統一戦線工作部の張兆漢部長を団長とする中國「ランの花代表団」が日本を訪れた。周恩來総理の指示を受けて、廖承志氏の有能な助手である孫平化氏、王暁雲氏、王暁賢氏の3人も代表団メンバーとなった。3人はランについてはほとんど知らず、彼ら自身の言葉を借りれば「ランとニラとの區別もつかない」とのことだったが、代表団の中では最重要人物だった。東京の羽田空港で、代表団は松村謙三氏の秘書?山本重男氏の歓迎を受けた。山本氏はまず松村氏からのお詫びの言葉を伝えた。というのも、松村氏が中國を訪問するときはいつも國賓待遇を受け、中國政府の指導者が出迎えてくれるが、日本でも同じように遇することが出來ないからだった。これでは中國からの客人に申し訳ないということで、山本氏にありったけの思いを込めて代表団を接待するようにとの指示が下った。松村氏は決して豊かではなかったが、自腹を切って代表団の訪日費用をまかなうつもりだった。
代表団は訪日期間中、日本のラン愛好家と交流したが、これは実は訪問の重要な目的ではなかった。代表団はまもなく日程を終えて帰國したが、3人の秘書は日本に殘り、本當に重要な日程をこなし始めた。
日本日中覚書貿易事務所の河和良一代表の水面下の手配により、孫氏たちは通商産業省(當時)官僚の渡辺彌栄司氏と會見し、日本から中國へのプラント設備輸出で日本側が輸出信用を供與するかどうかについて、日本政府の態度を探った。渡辺氏は再三躊躇し、難しいことだと述べた。なぜなら當時両國には國交がなく、輸出信用の供與は不可能だったからだ。また日本の政治家の多くが、輸出信用を供與しても日本政府にはなんのメリットもないと考えていたからだ。それでも渡辺氏は將來の中日関係にプラスになると考え、この覚書貿易を支援することを決めた。
その後2000年になって、渡辺氏は中國人記者に、當時中國を支援すると決めた理由を次のように語った。
1963年に私は45歳で、通産省の官房長官を務めていた。孫氏に會ったのはあの時が初めてで、直感的にこの人はよい人であり、一生つきあえる友人になるとわかった。あの當時私にできたことは、大臣に背き、自分のもっている権限を使って、プラント輸出を許可することだった。大臣がこのことを知れば必ず止めにかかるとわかっていたので、私は腹をくくって、もしも発覚したら官を辭して野に下ろうと決めた。
渡辺氏が文書に調印してから3週間後、この件はついに大臣の知るところとなった。渡辺氏の回想によれば、大臣は家が火事にでもなったかのように大騒ぎしたが、國際的慣例に基づいて、文書はすでに発効していた。大臣は渡辺氏に辭表を出すことを許さず、渡辺氏のひとかたならぬ苦労に理解を示したという。
「人民網日本語版」2010年9月8日