日立の最高顧問莊山悅彥氏が鄒琴さんのお見舞いに。
24日、対外貿(mào)易経済委員會(huì)の日立を擔(dān)當(dāng)するスタッフは突然、電話を受けた。日立の前會(huì)長(zhǎng)で現(xiàn)在最高顧問の莊山悅彥氏がある社員を見舞いたいという。彼はなぜ一般社員の見舞いに自ら出向こうというのか。
5年前、翻訳を擔(dān)當(dāng)していた鄒琴さん(仮名)は結(jié)婚式前夜、突然の交通事故で植物人間になってしまった。彼女の最愛の日本人夫で日立の中國(guó)重慶でLRTプロジェクトエンジニアとして駐在していた佐藤さん(仮名)は片時(shí)もそばを離れず、彼女が目が覚めると信じて付き添っている。この生死をかけた愛情の物語は日本の雑誌に掲載され、莊山氏の目に留まったのだった。
鄒琴さんは1976年1月、重慶で生まれ、學(xué)校を卒業(yè)後、日本に6年留學(xué)し、重慶でちょうど日本の最先端LRT技術(shù)を?qū)毪工霑r(shí)に帰國(guó)したことから、翻訳者として採(cǎi)用され、佐藤さんと知り合った。2006年2月に海外婚姻登記手続きをして、10月から婚姻関係となるところ、思いがけないことに9月、鄒琴さんは交通事故に遭遇してしまった。
鄒琴さん一家を感動(dòng)させたのは、佐藤さんが彼女から離れないばかりか、3年間ずっと中國(guó)の各地に出向き彼女の目を覚ます方法を探し回っていることだ。2009年、最新の幹細(xì)胞移植技術(shù)によって、鄒琴さんの両手、両足は少し動(dòng)くようになった。この物語が莊山顧問の感動(dòng)を呼び、年次會(huì)合の前日、部下に命じてなんとしても時(shí)間を割いてこの夫婦に會(huì)いたいという運(yùn)びになったのだ。
病室に入ると、莊山顧問は身體を少し傾け、小さな聲で「お見舞いに參りました」といった。鄒琴さんの母は感謝を申し上げ、鄒琴さんに日本語でありがとうといいなさいといった。莊山顧問は鄒琴さんに花を?qū)盲薄?lì)ましを述べた。鄒琴さんも小さな聲でがんばりますといい、その場(chǎng)は感動(dòng)で包まれた。
鄒琴さんはまだ回復(fù)途中で、自由に自分の感情を表現(xiàn)できないが、母親の助けを借りて「桜」という歌を歌った。歌を歌ったとき、鄒琴さんの夫はずっと彼女のそばに寄り添い、彼女の髪をなでながら耳元で何か言っていた。彼の彼女を見るまなざしは優(yōu)しく、とてもしっかりと心が結(jié)ばれた夫婦であることが見て取れた。交通事故という災(zāi)難は彼らの生活を変えてしまったが、人よりも多くの苦労を得て、人には味わうことの出來ない真心を得たように見えた。
その場(chǎng)にいた人は、よく日本のドラマの美しい愛情のストーリーに感動(dòng)していたが、あれはテレビの中の幻想ではなかったのだといった。現(xiàn)実の社會(huì)では若い人が「金持ちになって泣いても、貧乏で笑っているよりまし」などという時(shí)代にあって、この本物の愛情物語は私たちの心を靜かに打たずに入られない。
「中國(guó)網(wǎng)日本語版(チャイナネット)」 2011年9月27日