文=コラムニスト?陳言
ここに、34年前名古屋市民が私に贈(zèng)ってくれた記念章がある。そこには一見(jiàn)、漢字の「友」の字が記されているように見(jiàn)えるが、実際にはひらがなの「な」の文字である。これは、「なんきん」と「なごや」に共通する一文字目であり、南京と名古屋の友情を象徴している。
1978年、私が大學(xué)進(jìn)學(xué)のため、北京から南京へ向かったその年、南京と名古屋は友好都市となった。上述の記念章は、名古屋の訪中団の一人が、活動(dòng)に參加した全ての學(xué)生に贈(zèng)ってくれたものである。その代表団は発言の際、いつも1937年の大虐殺について取り上げ、南京、そして中國(guó)に対し心からの謝罪を表していた。「日中不再戦」は中日友好に攜わる者の基本的態(tài)度である。その後30年以上に渡って中日の市民間友好交流活動(dòng)に參加し続けた私を突き動(dòng)かしていたものとして、この「友」と記された記念章も大きな一役を買(mǎi)っていたと言える。
名古屋市長(zhǎng)の南京訪日団に対する「友」精神に背く発言を聞けば、その誰(shuí)もが彼の無(wú)知を恥じることだろう。
資料寫(xiě)真:河村たかし名古屋市長(zhǎng)
1945年8月16日、河村氏の父親の河村鈊男(かねお)ら日本軍人捕虜たちは南京の棲霞寺に収容されていた。8年前の悪行から考えれば、彼らを全て処刑しても決して行過(guò)ぎたことではなかったが、南京の人々は捕虜を殺さず、徳を以って恨みに報(bào)い、1946年に彼らを釈放した。そして、河村鈊男は日本に帰ることができた。
河村鈊男は南京の人々に受けた恩を忘れることはなかった。報(bào)道によれば、彼を含む南京で命拾いした舊軍人たちは、南京市民の寛大さへの感謝として、南京市に1000束の桜の花と寄付を送ったという。當(dāng)時(shí)、河村鈊男は重病を抱えていたため、妻にその役目を果たさせた。