消えてしまった「刺身」
中國には「膾炙人口」という四字熟語がある。「炙」は火で炙った肉の事を指し、「膾」とは魚の刺身の事を指す。四字熟語が表す「良いものは皆に好まれる」という意味からも分るように、焼いた肉も魚の刺身も人々に愛されていた食べ物だった。呉越戦爭で有名な越王?勾踐は、刺身を食べようとした時に呉の攻撃に遭い、驚きのあまり、食べていたものを全部川に投げ入れてしまった。川に捨てられた刺身は小さな魚になり、「銀魚」や「刺身魚」と呼ばれたと言う。人々は刺身が川に捨てられた後にすぐに腐ってしまうのが、もったいないと感じたのだろうか、このようなエピソードが語り継がれるようになったのだ。面白いが、何だか切ないエピソードである。
中國人は昔、生の魚を刺身にして食べていたが、いつの間にか食卓から姿を消してしまったのだ。宋代の詩人である梅尭臣が詠んだ「設膾示座客」という題の詩に、このような句がある。「蕭蕭雲葉落盤面、栗栗霜卜為縷衣」その意味は、「刺身はまるで雲のように皿の上に浮かんでいる。大根は霜のように白く、絹糸で編んだ衣のように細かく切られている」。この事からも分るように、當時の食卓には魚の刺身だけでなく、付け合せのツマもちゃんと用意されていた。11世紀まで、中國にはまだ刺身があったという事だ。
宋代から石炭が普及し、長時間火力を維持することができるようになり、火を使った調理法が一気に発展した。火が生活に不可欠なものになっていった時代に、刺身のように生のまま食べる料理はだんだん見向きもされなくなったのだろう。