川端康成の『伊豆の踴子』で、筆者は伊豆という美しい名を持つ場所を始めて知った。浄蓮の滝に到著したのは午後で、臺風に見舞われ雨が降ろうとしていた。食事をする間もなく、下山の道を歩いた。これは當時の踴子の道で、石段には時おり新しいコンクリートの舗裝が交じるが、美しく整然としている。山には青々とした木々がそびえ立ち、外の世界から光を半分遮り、靜かで趣深い道になっていた。
山腹では水の流れが聞こえ、木々の枝の奧に白い滝が架かっていた。踴子の高下駄の音を思い浮かべながら、一路小走りした。ふと土砂降りの雨がふり、瞬時にして靜かな山林に雨が打ち付ける音が響き渡った。筆者は小説の冒頭、主人公の男女が雨宿りをしようとして知り合ったことを思い出した。ただしこの日の浄蓮の滝は小説で有名になり、観光客の目的地になっていた。流れ落ちる雨により、想像の世界だけの光景がかき消された。
筆者は仕方なく雨宿りをした。家の主は突然の來訪者に驚かなかった。この家は山中で植えたわさびを売る業者だったのだ。